ヴァーチャルとリアルの境界はもうないのかもしれません。
特に高度に発達した知的な労働・娯楽・ソーシャルの世界では。
人間が、その能力で認知できない「もの」は存在していないと見なせます。
ただし、能力には個人差があります。
コンパクトディスクの音質やMP3の音質は人間の聴覚が聞き取れない部分をカットすることによって加工性やデータ容量の圧縮性というメリットが得られる技術です。
原音などとの違いを認識できる人にとっては「本物でない」ことが耐えられないかもしれませんが、現代の多くの人には受け入れられている様子です。
人工甘味料や様々な人工的調味料がもたらす味覚が本物ではないことはほとんどの人にとって影響がないでしょう。
(短期的に。長期的な健康被害の可能性などは不明です)
コミュニケーションについてもヴァーチャルとリアルを分けて考えることがナンセンスになってきています。
例えば、あなたが仕事で他人のオフィスに訪問し、仕事の話を始めたとします。
このコミュニケーションは「リアル」です。
昔であればこのコミュニケーションを邪魔するものは同じようなレベルの「リアル」だけでした。
同僚が緊急の用件で直接そこに割り込んでくるような状況ならばあり得ました。
今では違います。
電話がかかってきてそれを取らざるを得ないことはよくあります。
さらに訪問しているあなたの携帯電話にも連絡が入るかもしれません。
大事なのはこれらがリアルかヴァーチャルかでなく、それに含まれる内容やコミュニケーションによって対応のタイミングや重要性が判断されるということです。
(ついでに言えば、電話にしてもケータイにしても、その音声はいったん電気的な信号に置き換えられて、データとして運ばれた後に、音声に戻されます。これは果たして「リアル」なのでしょうか)
ヴァーチャルとリアルの境界についての認識は世代間でも大きく違っていると思われます。
家族の食卓で子供がケータイをいじって友達とメールなどをしながら食事をしていたとして、それを注意して止めさせようとする親がいるかもしれません。
しかし、それを止めさせようとする根拠は何でしょうか。
「行儀が悪い」からでしょうか。それとも「目の前にいる人間とのコミュニケーションを優先・尊重するべき」だからでしょうか。
おそらくそこに世代間の認識の違いがあります。
現代の若者のコミュニケーションのとらえ方としてリアルとヴァーチャル、直接に会うこととケータイで話したりメールしたりすることの差は全く無いとまでは言えませんが一世代前の人間が想像もつかないくらい少なくなっています。
若者にとって目の前にいる親とケータイなどの向こうにいる友人は同じくらいに「リアル」です。
ケータイのメールに5分以内に反応してリアクションをしないと「失礼」だと相手に思われる、というのは笑い話ではないかもしれません。
現代の「大人」が目の前の人から話しかけられたときに「無視」をしたら礼儀に欠けるとされるのと同じように、若者にとってケータイのコミュニケーションを「無視」することはきっと「失礼」なのです。
現実社会から隔絶して生活することを「引きこもり」と称したりします。
私は最近ですと「ケータイの迷惑メール設定が変えられなくてメーリングリストが受け取れない」「Gmailを使えない」「ブログやツイッターは一生自分たちには縁がない」「Googleで検索したことがない」「iPhoneってそんなに便利なの?」という人たちに自分と同じくらいの理解を期待して、うまくいかずに残念に思うことがあります。
それらを強制的に啓蒙する気にはなりません。
しかし、これらの費用対効果を考えてうまく使えば便利な技術やインフラに興味を持たないことは、「ヴァーチャル」を理解しようとしないで「リアル」な世界に「引きこもっ」ている「逆引きこもり」とでも言えるような気がしています。
2010-06-19 8a.m.
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