やるべきこと、やりたいこと、やれること

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前の職場に異動してあいさつをするときに「自分にとっての、《やるべきこと》と《やりたいこと》が一致して、さらにそれが《やれること》だったら嬉しい」ということをしゃべった。
見方によっては不遜なことを言っていたかもしれないが、そのときの自分の任務が割りに特殊であったり、独立的に進められる部分が多い業務だったりしたのでまあ許されるだろう。

読んでいた本の中に、似たようなこと、以前のこのあいさつエピソードを思い出させるような文章が偶々あったのだった。

そりゃあ、「やるべきこと=やりたいこと=やれること」という状態は理想的だろう。
しかし、「理想的=現実には無理」と考えてしまうのも悲しい、というか楽しくワクワクできない。

どうも、こうした「いかに生きていくべきか」というようなことを考えるといくつか決まって思いつく、思い至るものがある。

一つには村上春樹の「ノルウェイの森」に出てくる主人公の先輩「永沢さん」のセリフだ。
「やりたいことではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」とかいうものだったと思う。

もう一つは、自分が自身に問いかける「今この瞬間に死んでしまうとして悔しかったり悔やんだりするだろうか?」という命題だ。
これはブログにも書いたことがある。

今死んでも大丈夫 | deathhacks

論理的に考えることは大事だが、今回書いたようなフィーリングとしか言いようのないものも同じくらい大切なものだと思っている。

2012-05-11 07:00

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相手よりもややフォーマルな服装で

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先日、まったくの初級者に、カウンセリングとまではいかなくても、職務上ものとはまた違った、悩みや相談を拾い上げるような面談をトレーニングする機会があった。

仕事上、あるいは人生の上での経験は多くあっても、悩んでいる人の話を聞くということになると、皆急に不安が大きくなる。

そういった状態だから、本当に基本的な部分についての素朴な疑問や質問が出てくる。

「カウンセラー(聞き手)はどういう服装をするのが良いでしょうか?」という質問があったが、その時点では「ケースバイケースですね」とか「TPOに合わせて」というような、一番つまらない、間違ってはいないが役にも立ちにくい回答しかできなかった。

その後、思い巡らせ、またまたセレンディピティ的に、再読していた本からそのものズバリのアイデアを見つけた。

本はガー・レイノルズ氏の「裸のプレゼンター」だ。

「服装に配慮する」(※ページ数は後ほど確認して追記する)の項より。

回答としては「クライアントに対応するときの服装は、クライアントよりもややフォーマルなものが良い」だ。
(あなたの立場がカウンセラーでもプレゼンターでも)

そのポイントは3つあった。

プロフェッショナルな印象を与える

服装や見た目はその場への準備であり、そこからクライアントや聴衆への敬意を表すことができる。
大臣が天皇陛下から任命されるのに正装をするようなものだ。

もちろん様々なメッセージコントロールや言葉、人柄、人格、実力などでも同じことを表現することはできる。
しかし、一目で相手の期待に沿うためにはビジュアルの利用が不可欠だ。

聴衆から浮いてしまわないように気をつける

かと言って、常に正装、ないしカッチリと隙のない服装をするのがベストというわけではない。
カジュアルなドレスコードが「正しい」場もある。

工事現場や肉体労働の場、災害や事故の現場などに、相手がフォーマル過ぎる服装で現れたら、どうしても心理的な距離が生じるかもしれない。

少々ドレスダウンすることはいつでも可能

スーツ姿からでも、ジャケットを脱ぐ、ネクタイを外す、腕まくりをする、などのようにくだけた演出をしていくことはできる。
ただし、逆にTシャツやハーフパンツ、サンダル履きなどの状態から、ドレスアップするのは難しい。

まとめ

初級者に対してではなくても、質問にはできるだけ具体的に答えるのが良い。
無難な回答はリスクが少ないように見えるが、プロフェッショナルに期待されるものがそれかどうかはわからない。
「話を誠実に聞こうとする場面では、相手よりもややフォーマルな服装を心がける」というように、狭い範囲の答えを自信を持って出してよい。

2012-04-24 08:00

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クライアントと自分をリアルタイムに観察しながらメッセージをコントロールする

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メッセージコントロールのデモンストレーションをやっていて、珍しく新しい発見があった。

短いフレーズにも、強く感情がこもったり(こめることができたり)、メッセージが入り込んだりすることは、確かにある。

宇多田ヒカルも、「あ」から歌い始める場合だけでも、こもった声から始めるか、サラッと始めるか、ビブラートを効かせるか、かすれさせるか、ファルセットっぽくつないでいくかなど、本当に無限の表現方法があるというようなことをどこかで書いていた。
(残念ながら、今うまく、出典がみつけられない。。)

カウンセリング、そしてメッセージコントロールではプロの歌手ほどにボーカルコントロールをする必要は少ないかもしれないが、ポイントポイントでは重要だ。

クライアントが惨事に遭遇した話を聞いて、「それは大変でしたねぇ。。」とまとめたように言ってしまうと時に嘘くさくなる。
それよりも、「こうで、こうで、その後そんな状況になってしまったんですか。。」というフレーズ自体の声質に感情を込め、抑揚をつけ、表情を曇らせ(たりす)るのだ

こうしたときのメッセージは強力だ。

事故で死にかけました、という体験を聞いた時に、その話題を取り上げるか、流してしまうかという選択や、タイミング(間が0.5秒でも空いてしまうか否か) も如実にクライアントが受け取るメッセージを決める(変える)。
ちょっとでもあいまいで、ぼかしたような表現だったら、カウンセラー自身の言葉で言い換えて確認してしまおう。
さらにまた、その言い方にメッセージをこめられる。

声が落ち着いてサラッと繰り返しているか、ためらいや恐れが入っているか、早口や逆に強調して確認するようなゆっくりとした話し方になっていたりするかなど。

まるで演劇のセリフ回しのようで、シナリオのない、カウンセリングの現場ではそんなに器用なことはできるはずがないと思う人もいるかもしれないが、先に書いたように、要所要所で半ば無意識半ば計算しながら、クライアントの反応や表情をリアルタイムに確認しながら、自分が出しているメッセージをコントロールすることはもうすでに私や仲間はやっている。

一朝一夕にできるものでもないが、訓練や現場体験、そしてふりかえりでほとんどの人が身につけ、メッセージコントロールを上達させることができると感じている。

2012-03-26 08:00

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「カウンセリングとは何ですか?」と聞かれたらこう答える

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カウンセリングを扱うのであれば、誰かに「カウンセリングっていうのは何がどうなって“効く”のですか?」「カウンセリングって結局“何”ですか?」と質問されたら答えられなくてはいけない。
初心者、初級者を除いて。

私なら今、「カウンセリングとは言語的または非言語的な手段を使って、他人を支援し、行動の変容を図る人間関係のことです」と答える。
何のことはない國分康孝氏の受け売り、パクリだ。
言葉としては。

この文章の意味や背景、カウンセリングの説明で、30分や1時間は話すこと、話せることがある。
長く話せば良いというものではないが、色々と考えていること、思うところがある。
あとは、それが他人の腑に落ちるか、普遍的な要素がどれだけ含まれるかが鍵になる。

私が挙げた(國分氏の文の)定義の前半「言語的または非言語的な手段を使って」という部分はこのブログでも何度か取り上げた「メッセージコントロール」に当たる。

古典>近・現代>最新(メッセージコントロール)《カウンセリングの変遷》 | deathhacks

はじめはメッセージコントロールだけで十分 | deathhacks

メッセージコントロールが革命的である理屈 | deathhacks

それと、閉ざされていたり、限定的な時間や空間、条件などにも縛られないという風に解釈している。
要は何を使ってもいいということだ。
極論をすれば「手段は選ばない」、と言うか「手段はそれほど重要ではない」
非社会的なもの、非倫理的なものなどを除いては。

隙間産業的なカウンセラーを目指す | deathhacks

後半の「行動の変容を図る人間関係」について。

「行動の変容を図る」という部分については、國分氏の著書での説明が実に腑に落ちる。
カウンセリングによってクライアントの思考や世界の見え方が変われば、今までと違う行動ができるようになる。
また、周りからは「あいつはまったく変わらない」という風に見えたとしても、本人の内面が変われば同じ環境、同じ出来事に対しても、我慢ができたり、別の考え方をして人生を乗り越えていける。
そんな感じの説明だったと思うが、詳しくは本をみて欲しい。

カウンセリングの技法
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「人間関係」については以前に述べた私の考えのエントリにリンクしておく。

はじめはメッセージコントロールだけで十分 | deathhacks

好かれればカウンセリングはうまくいく | deathhacks

カウンセリングの中で出てくる言葉のやり取りだけに注目しているならば、なぜ同じことを言っても感じ方や結果が違うのかがうまく理解できない。
意識して再現性を高めることができなくては、カウンセリングの科学性や学問性を肯定することができない。
そういう状態では、自分が良いカウンセラーになることはできても、他人にカウンセリングを上手に教えたり、継承して再生産していくことができない人だということになる。

誰がどの立場から言うかによって言葉の意味やメッセージはガラリと変わる | deathhacks

カウンセリングは「何を言うか」でなく「誰が言うか」 | deathhacks

どうも前にも書いていることを繰り返してテーマにしているが、まだまだ理解と説明の熟成が不足しているから、何度でも考え続けている。

2012-02-29 07:00

小学生にもわかるように3秒で説明する

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他人に知識や技術を教えるときのコツというか、工夫として「小学生でもわかるように説明する」というものがある。

どんな知識でも技術でも、本を読んだり、人から聞いただけでは本当に理解することは難しい。
それらの内容に触れて、ひとときは感動したり、わかったつもりになったり、次にやれば自分にも同じことが期待通りにできると感じたりするかもしれない。
しかし、純粋に趣味や楽しみとして知識を仕入れたり、習ったりしているなら別だが、その学んだことをあらためて自分で表現する、再現することができてこそ「本当に理解した」と言える。

勉強したり憶えたりするだけではなく、他人に教えることによってより深くしっかりと理解することができるのだ、ということはよく言われていることだ。
逆に「わかりました」と言っている人に、説明をしてみてもらうと、言葉が全然出てこなかったり、間違っていることがポロポロと現れたりして、はじめて本人が自分の理解についての錯覚に気づくということもある。

また、この他人に教えるという状況で、そのテーマをよく理解している人ほど、簡単な言葉、平易な表現、聞き手に合わせた比ゆなどをうまく使うことができる。
うまく伝わらない時には、即座に、何度でも、何種類でも表現できるのが理想的ということになる。
言葉は抽象化された共有のための表現でありツールに過ぎないから、その使い方ややり方にただひとつの正解というものは本来ないはずだ。

抽象化というと難しい印象になってしまうが、それすらもツールであるから、適切に言葉ややり方を選べば、適切なレベルで、小学生くらいの理解度があればたいていの事柄はわかってもらうことができるはずだと思う。
うまく説明したり、喩え(例え)話を持ち出せないというのであれば、その内容を自分がまだまだよく理解していないか、工夫の余地があるとみるべきだろう。

メンタルヘルスやカウンセリングについても、言葉としてはよく「小学生にもわかるように説明してみよう」とやってみるが、これを実際に実行してみると良いと思っている。
小学生に「うつ」をわかってもらうことができるか。何に喩えれば納得してもらえるか。どんな例を出せば身近に思ってもらえるか(学校でのいじめとか、テレビ番組とかを利用するのがいいか) そもそも話をしているあなた自身に興味を持ってもらえるか。
「小学生にもわかるように、大人に説明する」のと「今後小学生らを前にして1時間話をする」のでは、想定する状況としては近いようで本気度の違いが結構あるのではないか。

なんとかこれもまた、機会を探す価値があると思えている。

おまけ。
理解することと教えることについての一意見を紹介。
文章自体はさらっと書かれているが、とても厳しく鋭い。

283:050116 自分のことばと借りてきたことば: shiology

2012-01-17 13:00

引用はキチンとする

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引用の作法を守らなくては、逆の立場になったときに同じような不作法を受けた時に、異議を唱えにくくなる。
他人のノウハウを適当にパクったり紹介したりしていると因果応報の出来事が起きても文句は言えない。

秘密を守るというようなルールも、一見すると相手のための行為のように思えるが、利益も不利益も結局自分に返ってくる。
秘密を守らない人が信用されるだろうか?
秘密を守らない人が「これは秘密にしてね」と頼んだとして、その頼まれた相手はホントの本気で秘密を守る気になれるだろうか?

こういったモラルに関わることは、多分に感情的なものやフィーリングでしか語れない。
二つの立場同士の関係性が大事になってくる。
もしも自分の存在や発言が尊重されていないと感じたのならば、きっと自分がまず相手を尊重していないのだ。

すべての作法を完璧に守ることは難しいけれども、常に色々な角度から考えてみなくてはいけない。

2011-10-10 09:00

一流、二流、三流の違い

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経験しか語れない、経験でしか語れないのは三流か素人
聞いた話、教わったことをそれなりに説明できるだけでは二流
一流なら、もしもあなたが一流になりたいなら、自分で考えたことを語れ

というフレーズを思いついた。

経験しか語れない段階

素人は自分が体験した、限られた知識を、他人やすべての場合に当てはめようとする。
たいていそうしたほうが自分にとって有利になるからだ。
あるいは、自分が否定されることにあらかじめ予防線を張っているとも言える。
変化やそれにともなうストレスを恐れることや、正常性バイアスなんかも同じことだ。

変化にはもちろん、良いものと悪いものがある。
しかし、それらのほとんどは結果であって、変化する(している)そのときに正悪は判断できない。
その点から考えるに、変化は不変に勝る。
悪い変化ですら、不変よりも正義だ。

他者から学ぶ段階

そこで、現実社会では、自分や自我、自分の考えや感情や行動を客観化するために他人に教えを請わなくてはいけない。
我以外皆我師(われ以外皆わが師)だ。

聞いたこと、知ったことをアウトプットしよう。
それが自分の訓練となるし、世の中も良くする(はずだ、と信じたい)。
外に出す知識や技術が自分のものになっていないと、そしてそのことに自分で気づくようにしていないとプロとしては無責任である。
他人に話しながらも、その内容を疑うというのは、難しくて苦しい。
だからこそ、長く楽しめる。

自分自身で考える段階

常に疑い、自分で問題を設定し、答えを探し出すのが一流なのだと思う。
そして、他者と自身の考えや行動を、ちゃんと認識して、分けて考えられること。

おまけ

注意したいのはこの一流>二流>三流という関係は上位互換であることだ。
当たり前だが、自分の考えやオリジナルを語る、重要視するということは、他人から学ばないとか話を聞かないということとは違う。
自分の経験や現場も貴重で大事だ。

2011-08-17 09:00

(参考URL)

認知バイアス – Wikipedia

我以外皆我師 – Google 検索

上位互換 – Wikipedia

(関連URL)

一流、二流、三流の違い – papativa.jp

経営パワー研究所∞:第50回(1流と2流以下の違い) – livedoor Blog(ブログ)

独身の子育て – 結婚について(5)

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私は結婚も離婚も再婚もしたことはない。
もちろん子供はいない。
しかし、「子育て」はしていると思っている。
それは税金を払っているからだ。

国は結婚させたがる – 結婚について(2) | deathhacks

上のエントリに書いたように、「国」を発展させたり守ったりするためには、資源がいる。
物質的な資源ばかりでなく、人的資源は今後もさらに重要になる。
そういった意味で、子育てへの行政的な支援や、教育は国の根幹だ。
直接に子供をもうけて育てていなかったとしても、税は支払っているはずだ。
これは間接的な育児と言える部分を含んでいる。
何も人口が増えるだけが良い国家繁栄の策でないのは明らかだが、世代がうまく交代していかなくては国家も人類も終了する。

非婚であることや子供がいないことを辛さや恥ととらえる人もいれば、それを主体的に選んで人生を楽しむ人もいる。
結婚している側として、独り身のことを奇異に感じたり、真偽は定かではないがうらやんだりする者もいる。

結婚というものは、生き物としての自然や本能による行動というだけでなく、契約や制度としての面や、国などの集団からの観点、感情や日々の生活に直結する悲喜こもごもなどを含んでいて興味深い。

《ここまでの5連続エントリで「結婚」についてはいったん終わり》

2011-06-25 08:00

(関連エントリ)

「貧乏人は子を産むな」と言っている人々は、一つ重大なことを忘れている。

子を産むのは確かに親だが、子を育てるのは親だけではないということを。

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな

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一度に15秒間以上しゃべらないことにした

R1008607

最近ちとしゃべりすぎている。
言いたいことがドライブする。
しゃべること、コミュニケーションの目的の多くは「人に変化をもたらす」ことだ。
この「人」とは他人も自分も含む。
多くしゃべって、目的達成や成果にうまく結びつくなら良いがそうでもなさそうだ。
それではただのストレス解消トークや「私は言いましたからね」というエクスキューズにしかならない。
と考えるとしゃべったエネルギーがもったいない。

一度にしゃべる時間を15秒までに抑えようというのは、一つにはコミュニケーションの目的を達成するためには対話・会話がなくてはいけないからだ。
そして、自分が話した後に、間を置いてから、また自分が話すのは構わないことにする。
自分がしゃべった後に必ず相手のターンにして一手指されるのを待つ、という縛りではない。
とにかく、しゃべりっぱなしになって相手の反応を見ない、待てない、というのではいけないな、という戒め、自分ルールを試してみる、ということだ。

15秒と決めたのは単に我慢のためというわけではない。
齋藤孝氏の「人を10分ひきつける話す力」(だいわ文庫)からの受け売り、パクリだ。

p.25

十五秒の話に意味をこめられるか
「意味の含有率」とは、時間あたりの意味の量をさす。

p.26

 十五秒というと、短すぎて何も言えないと思うかもしれないが、これはちょうどテレビCM一本分の時間と同じ長さだ。十五秒のCMにはかなりの情報が入っている。となれば、十五秒の話でもかなりの意味を入れこむことができるはずだ。
 十五秒という短い時間で話そうとすると、頭を速く回転させて、大事なポイントを落とさず、きちんと通じる日本語になるように話さなくてはならない。それが話すことのいい基礎訓練になる。

人を10分ひきつける話す力 (だいわ文庫)
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次回、集団の前で話をし、教育する機会の準備・練習として、この「意味の含有率」を上げる訓練をする。
これは日常でのチャレンジだ。

この「15秒ルール」をまずは常に忘れないためにはどうしたらいいか。
自分が普段一番目にするものに「15秒」と書いたラベルを貼り付けた。
iPhoneだ。

2011-06-18 08:00

被災地に慌てて進入しようとするのは無謀 – 東日本大震災から65日

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被災地にボランティアで行っても、役に立たなかったり、却って好意の押し付けになったり、自責感や無力感で自分自身がやられてしまったりする。

少し違うが「勇敢でベテランの戦闘機乗りを存在しない」という文を思い出した。
戦闘機のパイロットは臆病で逃げ回っていれば、とにかく生き長らえることはできる。
たとえエースにはなれないとしても。
勇敢にドッグファイトに挑めば、多くの場合「どちらかが」(あるいは両方か)撃墜される。
手柄を立てて生き残ったパイロットも戦闘を重ねていけば死の確率は累積する。
だから大戦の戦闘機乗りの多くは優秀であったとしても「ベテラン」の域に達したものは少ないということのようだ。

また、井上靖の「氷壁」では常盤大作が魚津恭太に「登山家は優秀であるが故に山で命を失うのじゃないか」と問いかける。

プロであるならば二次災害、二次受傷は恥だと、個人的には思っている。
しかし、メンタルヘルスケアの分野ではその見切りが難しいことも実感したり聞いて学んだりしている。
プロでなくとも、自分の行為や言動が何をもたらしているのか、判定は難しいが善なのか悪なのか、あるいは無なのかを計る尺度やメタ視点はあっていいと思う。

2011-05-08 07:00

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