うつ的思考やトラウマを打ち消すのに時間が必要なわけ

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おかげ様で下記Tweetに若干のFavとRetweetをいただいた。

相手に承認を与え行動を強化するためには結果を褒めるのではなく過程や行動そのものをタイミング良く認めることだ。
@neti2
小片武

元々は次のtumblogエントリを読んで、褒めることによる学習も失敗による学習も、人間の中に起こっていることは生理的にも心理的にも同じだろうと考えた。

六百デザインの「嘘六百」: 時折綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト
(原典ブログエントリを追加 2011-11-21 20:00)

tsuka tumblr : http://ktsukago.tumblr.com/post/11969901900/tv

そう。
世の中の出来事に善悪や良い悪いなんていうものは実在しない。
それは単に人間や社会が勝手に創りだした価値観だ。
だから、ある国で正しいとされていることが別の国では罰せられる。
昔は良いことだと思われていたことが現代においては皆に否定されるということが起こる。

絶対的な正義はないし、完全なる悪もない。
それは人類の宗教やら思想やらの対立の歴史が演繹的には証明している。

注目したのはそこまで大きいテーマについてではなく、うつやトラウマなどに関連した、あるクライアントが持つ苦しい
記憶や学習を緩めたりなくしたりするにはどうすればいいのかということを論理的に考えて編み出すこと。
ネガティブな内容の学習のしくみについては以下のエントリに書いた。

うつが「誤った学習」をもたらす | deathhacks

ここからわかることの一つは、うつ的な思考やトラウマは「学習」の結果生じているものであること、学習に繰り返しや時間という要素があるからにはそれを打ち消すためにも繰り返し、そして同等の(まったく同じとは限らない)時間が必要だということだ。

2011-11-19 10:00

(関連URL)

「より速く適切に学べる人」:その理由 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

(追記 2012-01-08 14:00)
(関連エントリ)

ゲームの適切な管理 | deathhacks

トラウマ体験と「におい」や「音」が強固に結びつく理由

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においや音に関連した連想記憶というものは視覚に関するものよりも、強い印象を残す場合がある。
いわゆるトラウマティックな体験と合わさってトラブルや問題になる。

その体験をしたときのにおいと同じか似たようなにおいを避けるようになったり、においによって記憶や別の感覚・映像が蘇ったりして苦しさを感じることは程度によっては対処が必要となる。
音についても同じようなことが起こる。
10年や20年前に聞いたことのある音楽を久しぶりに聞いたとして、同じ時期の体験がセットで記憶のどこかから掘り出されてきたりする。

人間は視覚がかなり優位な生き物だ。
感覚情報の7割から8割が視覚からだとも言われる。
人間は普段視覚を上手に利用して本や映像などを介し、互いに情報をやり取りしたり、記録を残したりしている。

慣れている視覚についてのコントロールよりも、原始的な感覚である音やにおいについては一般に難しい。
しかし、トラウマティックな体験からある人に対して刻み込まれる「情報」の量は、特に音やにおいについて大幅に増加する傾向がある。
非常事態においては、本能的に視覚以外の感覚をも最大限に動員しようとして一時的に、それらの情報が個人処理能力をに大きな負荷をかけるのかもしれない。
そして、それらの情報処理が終わるまで、数週間・数ヶ月から数年単位で「侵入」が続くと考えられないか。

まだまったく科学的な要素や論理ではないが、ASDやPTSDの理論上の機序に迫っている可能性がある。

2011-09-29 08:00

ASD、PTSDにおける回避と麻痺の背景は同じ

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ASDやPTSDの症状には、侵入(再体験、フラッシュバック)、回避(麻痺)、過覚醒がある。

この内、麻痺(感情鈍麻、離人感)は惨事に遭った直後に目立つ。
パニックになってしまうような事態、知己の死や自分の生命の危機などに出逢っているのに、その感覚が鈍かったり、意外と冷静に行動できたりしてしまうことを指す。
これは、あまりに大きなストレスを普段の人間の感覚のレベルで受け止めてしまうと、それだけで回復不能なダメージを受けることなってしまうことに対する防衛本能と言える。

回避は、体験した惨事に関連する場所や行動、人などを意識的あるいは無意識的に避ける行動を取ることを指す。
事故の起きた場所に近づけない(近づけないと実際上は困るとか、避ける必要がないのを頭ではわかっているのになど)、仲直りしたのにもうその人と会うことができないなどと状態になる。
これを麻痺とは別物として考えることもあるが、最初まとめて書いたように「回避」のバリエーションに含めることができる。

麻痺も回避も危険(の可能性)から自身を守るための本能が、過剰にあるいは不適切に動いてしまっている状態だ。
麻痺は受け手側のセンサーの感度や処理を鈍らせている。
一方、回避は行動面に影響を与えてストレスを受けるリスクを減らすように仕向ける。
どちらも効果としては似たようなものだ。

PTSDの症状では「侵入、回避、過覚醒」という並びで文脈に出てくることが多い。
しかし、侵入、過覚醒が、当事者の内面や感覚に現れる症状だととらえると、むしろ「侵入、麻痺、過覚醒」というように並べて、麻痺の行動についてのバリエーションとして回避を位置付けた方が適当だろう。

2011-07-02 06:00

惨事ストレスを受けた人のケアでは、話させた方がいいのか、話させてはいけないのかというテーマに対する新仮説

惨事ストレスケアにおいて、クライアントに話をさせた方が良いのか否かを判断するためには2つの要素を考慮するべきだ。
それは「惨事ストレスの強度」と「本人の想起・抽象化能力」である。

この2つが同時に高ければ高いほど、再体験によるダメージを増やすというデメリットが大きくなるため、積極的な介入ケアをすることは勧められない。
逆に、この2要素が同じように低い場合にはできるだけ、他人やカウンセラーなどに話したりすることで、体験の記憶のダウンサイジングを図り、体験を「教訓」や「思い出」に変換することを促す。

ケアのレベル・手段を今回は便宜上概ね3つに絞って考えると「何もしない(見守る)」、「想起させる(イメージなどとして思い出してもらう)」「話をしてもらう(話を聞く、いわゆるカウンセリング)」となる。
これを2つの要素の組み合わせに応じて、臨機応変に考慮しつつ、ケアの方針を決めていく。

話をすること(カウンセラーから見れば、話を聞くこと)がクライアントや患者、災害であれば被災者の癒しやケアになるのだという経験則や理論、各種研究はたくさんある。
しかし、それと同じくらい「いや、体験を聞いたりして思い出させることはさらなるトラウマやPTSDをもたらすから禁忌だ」という論も数多く存在する。

果たしてどちらが正しいのか。
きっと、どちらにも「一理ある」のだろうし、研究をしたとしても evidential に決着をつけるのは難しそうという印象を持っている。
何より、現場や災害が現実に目の前にあるのに、手を出していいのか、「我慢して」見守るだけにするべきなのかという判断のための材料を当事者や実践家は欲している。

2011-06-03 09:00

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惨事ストレスと心理的対処の基本的な考え方(メモ)

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災害でストレスを感じるのは当たり前の反応

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防衛反応は当たり前の反応だが、強すぎると心身を痛める、または長く続きすぎる

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※今朝はメモの画像で省力エントリ。そのうちテキストに書き起こすけど。

※文字がブレてるのは乗り物移動中に書いてたから。これでもだいぶ頑張って丁寧に書いた。

2011-05-12 06:00

《予備画像 width:640px》

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震災被災者の心理をサポートする視点 – 東日本大震災26日目

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伝聞でしかないのだけど、今般の災害に被災した方々の一つの気持ちのありようは、「今のことしか考えられない」「目の前のやることをやらなきゃ」というものだという。
発災当日からの激動の危機や生活の変化がはっきりと思い出せなかったり、それほど遠い先でもないと頭ではわかっているのにこれからの生活の立て直しや諸々の手続きなど進んで向かえなかったりといいたことなのかもしれない。

もしも、そのような状況の人たちを心理的にサポートするのならば、「今だけに目が向く(向いてしまう)」ことを専門家として”解釈”してあげる必要があると思う。
過去にしろ将来にしろ、ある程度の長さの時間感覚で振り返ったり、見通したりするのは、実はとても高度に頭脳が発達した人間の特徴だと言える。
いわゆる平常の日本の生活ではそれで問題は生じにくい。
むしろ、過去の自分の一生を省みて何か有益な発見をしたり、10年単位で自分の行く末や死について思いめぐらせたりということは人生を豊かにする一つの標準的姿勢かもしれない。

しかし、生死の境をさまよったり、自身や家族・知人の生命の危険を脅かされたり、財産をなくしたり、衣食住もままならない状況、あるいは情報の乏しい状況などでは、原始的生き物としての本能から言って、時間的に「長い目」で見ることができなくなることは当たり前のことなのだ。
つまり、そのような心理的反応を「防衛規制」と考えてみることができる。
身体あるいは精神は、そういった反応をする(している)ことにメリットがあるということになる。

プロとしては、他の、うつやPTSDなどと同じようにある一定の解釈を適切に、情報やメッセージとして提供することが求められる。
もちろん、単純に話や表現を聞く、共感をするというのも場合によっては有効かもしれないが、大事なのは「支援者自身のため」に共感することではない。
その微妙な距離感を失うとそれは「同情」というややネガティブな状態になるかもしれないし、感情転移に気づけないということにもなりうる。

大事マンブラザーズバンドの歌にも「そこにあなたがいないのがさみしいのじゃなくて、そこにあなたがいないと《思うことが》さみしい」という歌詞があった。
そんな微妙な距離感、違いなのだと思う。

子どもでも大人でも、何か大きな困難や心配事、悲しい出来事などに出会ったりすると、わざと自分を追い込んで忙しくしたり、がむしゃらに頑張って自ら余裕をなくして乗り切ろうとすることがある。
それ自体は短期的には必ずしも悪い面ばかりではない。
プロがそれを見たときには、客観的に間違いを指摘したり、否定したりすることが最初には来ない。
当事者とは違う角度、視点、時間感覚から、その状態のメリットとデメリットを考え、適切なときに適切なやり方でサポートするのが仕事になる。
違いは、当人がそういった自分の気持ちを意識して半ばわざとやっているのか、災害や危険・困難に対面して思考や感情が「勝手に」そういった状態になっているのかということである。

例えば、時期を見て、心理的な事象についての情報提供をする、行政や医療などの連携できる資源とつなげるなどである。
ある一定期間、一定の時期には、防衛規制や極端なコーピングスタイルも有効ではあるが、今回の災がではそれがあまりに長期間に及び、うまく生活が立ち上がったり、行政や支援のサービスが提供されても、それと被災者個々の心理的復帰のタイミングが合うかは正に個別のデリケートな課題になる。

2011-04-06 07:00

言葉に敏感になろう、言葉にとらわれ過ぎないようにしよう

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カウンセリングでもメンタルヘルス教育でも、言語、話し言葉、書き言葉を使って、メッセージや情報を伝え、共有しようとする以上、そのツールについて良く知らなくてはいけません。
かと言って、言語学の専門家になるとか、法律や科学のように厳密な定義と解釈を研究するとか、言葉を使って”哲学する”とかいうのではありません。

例えば、我々は、うつやPTSDで見られるクライアントの事象を「反応」と表現することがよくあります。
一方、医療や心理職につく人としては、精神的なものにしても、身体的なものにしても、「症状」と捉える事柄が多くあります。
うつで、自分を責めるとか、人の目が気になるとか、死にたくなるとか、眠れなくなるとか。
PTSDで、突然事故の場面をまざまざと思い出してしまうとか、同じ場所に近づくことができなくなってしまうとか。

同じ(ような)事象を見て、それを「反応」と言うか、「症状」と言うか、これは我々の知る現場では、単なる言葉の違いに留まらず、クライアントに与えるメッセージが大きく変わり、カウンセリングや教育全体の印象や成果までを左右する可能性があります。
時には「裏のメッセージ」が含まれてしまい、良かれと思ってしている行為が、悪影響をもたらすかもしれないということです。

カウンセリングにしても教育にしても、その本質がコミュニケーションでありメッセージのコントロールであるとするならば、そのツールのディテール「だけ」にこだわるのは間違いです。
テニスで、一つ一つのショットのコースやスピード、精度は大事ですが、相手とのやり取りで生まれるラリー、そしてポイント、ゲーム、最終的には試合に勝つことが目標になります。
言葉にしてもメッセージにしても、何か絶対的な使い方やルールがあって、習った通りにしていればいつでも安心で間違いなし、というものではないことに気づきましょう。
それが、個人や他者としてのクライアントを本当にサポートすることにつながります。

2011-03-24 08:00

大規模災害の被災者に対して心理的支援をする際の準備知識

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印象だけで考えても、今回の東北関東大震災規模の災害の被災者や関係者は体験やグリーフが先々にトラブルの元になる可能性は高いと思われる。
その理由を述べる。

基礎的な知識として、同じような衝撃のイベントに出会ったとして、いわゆるPTSDのようなある一定基準上のトラブルにつながる可能性が高くなる要素は以下のようなものである。

  • 災害体験の前から、大きな疲労の蓄積があったり、うつ(またはそのリハビリ期)であったりする場合
  • 以前に、その災害に類似した危機を単回あるいは複数回繰り返し体験している場合(一見、経験の少ない若者の方がストレス耐性が低く思えるが、同じ種類の強いストレスに曝露したベテランが必ずしも「慣れる」、つまり「耐性を獲得する」とは言い切れない)

例えば今般の震災状況を見ても、被災者の多くに降り掛かったイベントは、生命の危険を感じたとか、家族と死別したとか、財産を失ったとかの単発・単純事象ではない。
(もちろん、それらは単独に、平時に起こったとしても、十分に精神的・社会的トラブルの原因となり得るレベルのものである)
安全やインフラを完全に奪われている。
人間の基本的欲求と称される、衣・食・住を確保できていない。
しかもそれらがすでに1週間以上続いている。
努力はなされているが、劇的に改善する希望や予感に乏しい。

このように、それ「だけ」でも極大な衝撃の出来事に加えて、身体的なストレスも同時かつ長期的に(繰り返し、継続して)かかっているとことである。
これは前述したようにトラウマ的イベントに曝されたことが、時間経過後にも適当な心理的処理がうまくされずに、トラブルが生じる要素が含まれているということになる。

そして、このことは支援者側にもほぼ同じように当てはまることにも注意したい。
むしろ、この知識や視点は支援者側に「のみ」、まずは持っていて欲しいものだと思っている。
やみくもにリスクの高さだけを指摘しても(そしてそれは一般の感覚としても漠然と認識している)意義は少ないからである。
ぜひ、支援者、当事者、関係者は、プロとしてあらゆる可能性を可能な限り扱いながら成果を挙げて欲しい。

2011-03-22 06:00

今回(東北関東大震災; *東日本大震災)規模の災害でのメンタルサポートにおいて留意するべきこと

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あくまで現場・現地に行っていない立場・状況で私個人が考えること。
現場にいないからこそ、心理的・ストレス的に距離を置いて見ることができるというのは利点であると思う。
しかし、現場や被災当事者からみれば、冷酷に感じたり、きれいごとや「それができたら苦労しない」ことを言っているように思えるかもしれない。

  • 支援者が二次的な被災をしないことが最重要である。身体的なものは当然として、精神的に疲労・疲弊して、現場で、もしくは平常の業務に戻ったときに重大な問題を引き起こさないようにチェック・管理する
  • 主に、日中に稼働すると仮定して(食事や最小限の休憩、睡眠等はとるものとする)、連続稼働は1週間から最大2週間が限界だと思う。それ以上は、仮に交代要員がおらず活動が休止・縮小するとしてもやむを得ない。勇気をもって撤退することを検討。(単純比較はできないが、実際のところ、単一の自殺、事故、惨事のサポートに数人チームで入ったときの、数日間のみでさえ支援者の健康を十分に害する程度まで疲労することを思い出して欲しい)
  • 原則として単独一人での活動をしない。禁ずる。いわゆる惨事に対するカウンセリングをするにしても2名ペアであたるなど。
  • チームとして活動する。これは一人一人がそれぞれ単に、同じ役割を任ぜられる、という状態・指揮系統ではなく、互いの活動内容や教訓をとにかくこまめに振り返り、共有すること。チームとしてリーダーとフォロワーが役割を果たしてチーム力を発揮するように
  • おそらく今回、急性期ケア・サポートは、どんなに多くのリソース・マンパワーを注ぎ込んで、労力を使い、気持ちや心を込めて行ったとしても成果を挙げたという実感を感じる可能性は非常に少ない。それほど強度で甚大な災害だということを認識する
  • 医療におけるトリアージ概念とまったく同じ発想をし現実を見るしかない。医療でも精神的サポートでもトリアージが必要な状況では、もしも平時であれば「より適切なケアを受けられた人」「助かるはずだった人」が存在する。しかし、それは医療者や支援者の努力や労力・技術の責任ではない/責任にはできない。ただし、いまだ、それを社会的に合理的に理解・許容する素地が十分に整備されてはいない。残念だが致し方ない
  • ★ケア業務の深さに関するトリアージが必要。急性期に(つまり「今」だ)、十数人規模のメンタルサポート技術者しかいないならば、被災者個々人に対する直接的ケアに主眼を置くべきではない。それよりも行政や自衛隊、海上保安庁、警察、消防組織、医療従事者、ボランティアなどの支援者に対する、惨事ストレスケア教育や成果を感じにくいことによる無力感や自責感に対する対策・対応に力を注ぐ方が良い。言ってしまえば「深く狭く」よりも「浅く広く」支援をするのが適当だ
  • いつか必ず「浅く広く」行う支援から「深く狭く」活動するべきタイミングはやってくる。しかし、災害発生から1週間の今(3/20現在)がその時とは個人的には思えない。
  • 支援者個人個人が、さらにはチームとしても、記録やミーティング(グループミーティング、解除ミーティング、じ後ミーティングというようなもの)を積極的に実施する。これまでもそうだったが、今回の災害にメンタルケア・サポート要員として現場に入っている人にとって活動(による体験)が惨事である。惨事によるASR、ASD、PTSR、PTSDに対処する方法として、これまで組織やクライアントに教育し、勧めてきた手法や知識を自分たちにも実践しなければ自己矛盾と言えるだろう。具体的にはすでに示したような「ミーティング」「記録(書き留める)」「話す」「自分を観察する」「事実を丁寧に確認する」などである。

結び。
現地に支援者として入った仲間に対して、活動の成果と自身らの無事を、それがとても困難なことと認識しつつも期待半ば、願い半ばの気持ちで待ちたい。

2011-03-20 09:00

メンタルヘルス教育において科学性が担保しづらいと感じる時

メンタルヘルスの教育でうつやASD、PTSDなどの時間経過による変化を表現しイメージアップしてもらう場合に、なかなか科学的、学術的な表現は難しい。
うつやPTSDにはICDやDSMというような診断基準はあるものの、それらは経時的なスコアリングをするためのものではないからだ。
つまり、「その人が(その時点で)どれだけ苦しいか」や「以前に比べてどれくらい良くなった(楽になった)か」ということの客観的評価および記録ができないということだ。

そのため教育では多少不正確であったり、実データに基づくものではないが、概ねのアップダウンなどをx-y 2軸グラフ(もどき)で表すことが多い。
カウンセリングやサポートは個別状況や社会リソースなどの違いによってケースバイケースの面が大きいから、それで十分であるし、「科学性」「正確性」で勝負しない(できない)と考えれば問題は少ない。

と考えればグラフなどの高低、長短について細かく議論しても仕方がない。
ただし、説明や質疑応答を通して、大きくズレた理解をしていないかだけは注意しなくてはいけない。
その点は議論をするなり、教えたこと(学んだこと)をアウトプットする場でチェックしフィードバックを繰り返すしかない。
応用力やOJTを早い段階から重視するのが現状では有効だと感じている。
(それしかない、とも言える)

2011-03-08 08:00

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