教えようとして学ぶ

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「教えてほしいです」というようなきっかけがあると生半可なことはできないから自動的に自分がその時点で持っている知識などを体系化したくなる。
しっかりと体系化してうまく俯瞰することができないとプレゼンテーションできないからだ。

ただし、そのテーマを他人に伝えるというモチベーションが既に高いこと、実際のところ体系化してまとめるコストが十分に低いか時間をかけることができる状況があることなどの条件も必要になる。

命令やビジネスだけでは簡単には動かないし動けない。
少なくとも僕はそうだ。

2013-03-05 08:00

今どき学びたいタイミングで学べないなんて

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何かを学びたくなったときに、大学なんかだと通常年度ごとの募集とカリキュラムだから、どうしてもモチベーションとのタイムラグが生じる。
さらに言えば、応募や受験の時期はさらに3ヶ月や半年前だから1年近く待たされることにもなる。
もちろん受験して選抜されるのだから、そのための準備期間は多かれ少なかれ必要ではあるのだろうが。

だが、現代のスピード感で考えるとちょっとこうしたタイミングのズレ・ラグがあるのはちょっともったいないように思う。

カリキュラムなどにしてもそうだ。
1年や3年、あるいは4年という区切りが定型として決まっていれば、ライフサイクルの中でなかなかマッチさせたり捻出したりが難しい人もいる。
現実問題としての家族状況や財政的な制約によってあきらめざるを得ない人、端からチャレンジのアイデアが浮かばなくなる人もいるだろう。

技術系のものであれば、どうせOJTが必須であるから、認定試験のみを定めれば良い。
事前の必須学習などは要らないだろう。
ある一定の能力や知識をチェックして、それを満たせば certification を与えるという仕組みだ。
学歴や年齢などの制限も原則不要だろう。

医学部をでなくては医師国家試験を受けられないとか、法科大学のカリキュラムを修了しなければ(?)司法試験が受けられないとかは無駄に思う。
必要だと思われる職務像をまず考え上げて、それを確認するための試験を作り上げる。
それを満たせば、どんなに奇妙な学習方法や経過をたどっていても合格だ。
明らかなチートを除外する工夫は要るのかもしれないが。

ただ、入学時期の違いや学習進度のズレがあまりに大きいと集団での学習というメリットが損なわれる。
場所やティーチングなどの資源を有効に配分することができないとコストが上がる。
結局学習効率、学びのインパクトが得られなくなる。

既存の資格試験や高等教育、大学教育がまったくダメで無駄でスピード感がないというわけでもない。
Web上の情報や現実世界でのリアルな学びが至上だというのでもなく実際は玉石混交だ。
個人のレベルでは常に変化とチャレンジの数量を増やすことに尽きる。

2012-12-26 07:00

学習していて毎回目からウロコを落としていたらヤバい

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エライ人の言うことはたいてい同じことの繰り返しだ。
でも、面白くてためになる。

なぜ、聞いて、学習しようとしているこちらが、そう感じるのか。

それは、聞いている自分たちが繰り返し何回も聞いているにも関わらず変わっていないから。
だから、同じことを聞いても毎度毎度「なるほど~」「へ~」などと感心してしまう。

これが娯楽なら別に構わない。
落語やお笑いネタの同じものを何回も繰り返し鑑賞するとかいうのならば「アリ」だ。

しかし、カウンセリングや精神分析などを業としてやっていくのに学んでいて、毎回教わったことに感心しているようでは「ヤバい」。
成長していない、学習していないということかもしれない。

新鮮に、発見して、深く腑に落ちるのは、願わくば現場のクライアントとのセッションでのみにしたいものだ。

2012-08-25 08:00

学んだことを身につけるには日常に取り入れるしかない

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何かを学習してもそれを使わなければ、忘れてしまうし、身につかない。
どうしたら良いか。

何かフレーズであれば、半分強引かもしれなくても、普段の生活の中で使うことだ。
例えそれが実際には適切な場面ではなくても、遊び感覚で利用する。
しつこいくらいに使ってみる。

中学生や高校生の友達内輪で、妙な言い回しや、なぜそれを使うのが楽しいのか本人たちもよくわからない言葉が流行るような状態を、大人は意識して学習のために作り出そう。
このやり方は、仕事や、場が会社であっても、楽しんでやってしまうのが、結局は互いのため、成果につながっていく。

(関連エントリ)

学ぶことのルールが変わった | deathhacks

2012-06-28 07:00

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自分を作っている要素の内訳と比率

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メンタルヘルス業界・分野でボチボチやっている。

自分のやっていることの内容はさて置いて、そのアウトプットの元になっているものは何だろうか、何処から来ているのだろうかと考えてみる。

およそそれらは3箇所から来ているのではないかと思う。

一つは経験、一つは常識、そしてもう一つは勉強だ。

経験

経験。
それは2番めに上げている常識とあまり違いがないのではないかと思うかもしれないが、ここでは主にメンタルヘルスの現場や惨事介入、カウンセリングなどの現場で学んだことという意味だ。
おかげ様でめちゃくちゃに豊富ということはないが、結構貴重な経験の場を持ってきたと思う。
自分にとってこれ以上はなかなか望めなかったのではないかとも思う。

さらには、今後のことを考えて、一時的にはチャンスが減るかもしれないが、自分の環境を大きく変えてみることもしてみたわけで。

生活の河岸を変える | deathhacks

常識

常識。
これは自分の価値観や過去の生き方、体験から形作られる。
別にどんなところに出しても恥ずかしくないものを持っているとかいう自信があるわけではない。
しかし、できるだけ多様な意見や色々な人をみて、接して、「使える常識」、「軸にしてもよさそうなレベルの常識」を常に準備・整備しておきたい。

カウンセリングは常識が8割 | deathhacks

カウンセラーは健全でなくてはならぬ | deathhacks

勉強

最後に、勉強。
すでにあるもの、わかっていること、先人の研究などを知らないこと、知ろうとしないこと、知らない怖さを知らないこと、これらはすべて怖い。

より多くを適切に勉強して知っておくことで、現場で失敗してしまうのを防げるかもしれない。
クライアントや自分のリスクを上手にコントロールできるかもしれない。

人生は短いから、全部を一から自分で調べたり考えたりする必要はない。
経験とも重なるが、現場にアウトプットして、世の中を変えていくような効率的な勉強をしたい。
無駄に勉強して、自分の時間を無駄にすることは、自分をまず大切にしていないし苦しく感じてしまうがどうだろうか。

まとめ

自分の中にある要素を3つに分けて考えてみた。
経験、常識、勉強。

これらのバランスと、そのときどきに充実させていく順番には恵まれているのではないかと思う。

自分を曲げるとか、他人や社会から孤立するような流れで常識を損なうことは、我ながらまあそんなに多くない。

経験はいくらでも欲しいというのが正直なところだが、現場に追われすぎるのも良くないから、ぜいたくは言えなかろう。
日々ドンドン将来への種はまいておこう。

勉強も、頭でっかちになりすぎないようにしたい。
一方で、学んでいく好奇心が衰えてしまったらそこでジエンドだとも思う。

2012-06-09 11:00

ワレイガイミナワガシ

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あらためて、日常のあらゆるものから学ぶことができる、ということを実感している。

色々フラッと立ち寄ったり、偶然出会ったものを眺めたり、そうして見たもの、気づいたこと、感じたことが、私であれば今もっとも関心を持っている、心理研究やカウンセリングに役立つ。

人間は世の中あらゆることに関わっているし、世界から影響を受けている。
そこでの個人や集団、社会の有り様や動きは、どれほど分野や見かけが違っていても心理的な視点で見て参考になるし、同様のものを適用できる。
人間そのもののしくみや心理は同じだからだ。

「あらゆるものがヒントになり、学ぶ素材になる」
本質は一緒だからだ。
「本質は一緒」というのもメタに考えると、それ自体「本質」でもある。

今回私は「都道府県対抗なぎなた大会」をふらと観に行って、様々な興味深いことに気づいたり発想したりすることができた。

港区公式ホームページ/港区スポーツセンターで「第53回都道府県対抗なぎなた大会」を開催します!

競技自体を元々よく知っているわけではないし、経験があるとかいうのでもない。
場所や「スポーツ・競技」というカテゴリーそのもの、そしてそれに参加したり運営したりしている人や組織など、そういったものに興味がそそられる。

こうした、普段自分が生きて生活している分野や業界とはまったく違うところで、感覚を敏感にして、色々と観察し、発見することはとても楽しく、有意義だ。

私のメンターの一人も座右の銘にしている。
「我以外皆我師」だと。

我以外皆我師 – Google検索

2012-05-28 07:00

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学ぶことのルールが変わった

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私が思うに、物事を学ぶことのルールが変わってきている。
事実や知識をインプットしたり、受け取ったりしているだけでは、本来得られるものの半分にも満たないし、学習したことにはならない。
アウトプットする以外に、真の学習や成長はない。

いや、確かに大昔から同じ事は言われてきている。
「教わるだけではなく、他人に教えることで知識や技術が本当に自分のものになる」というのはそこここで聞かれてきたことだ。
しかし、破壊や変化の時代では、このことを頭に入れて、もっと自身を追い込んで学ばなくては使いものにならない。

次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動 | deathhacks

今まで理解されていた「学習」のしくみは「教わる者が知識や情報、技術などをゲットして成長や利得を得る」というものだった。

しかし、実際は(実は古来からそうであることは変わっていないのだが)学んだ気になっている者は、何も学んでいないし成長していない。
極論としてはそういう認識をした方がいい。
出力して教えた者だけが、学び、成長していく。

例えばメンタルヘルスの学習やトレーニングで言えば、「うつっていうのは◯◯というように解釈して説明すると良いんだよ」とレクチャを受けるとする。
それ自体がいけないとか無駄というわけでは決してない。

しかし、そのあとのアクション、行動、思考が問題であり、成長するか否かの明暗を分ける。

「なるほどー。腑に落ちた! 今日はいいことを勉強して得したな。。」というように感動感激して終わり止まってしまったら、当人の満足感や充実感とはまったく違って「身に付いてはいない」。

どうすれば良いかと言えば、受けた内容や理論を足がかりにして、自分なりに咀嚼消化して、再構成し、「今議論していることは、つまり、、こういうことですかね?」「〇〇という表現もあると思うんですが、聞いてみてどうですか? かえってわかりにくいでしょうか?」と、投げ返して「うん。良いのじゃない」「なるほど。悪くない」というように他人の頭や感情に響かせるのだ。
これを質と量、両方膨大に積み上げていって、初めて「学ぶ」ことになる。

だから、過去に言われて、歴史が示しているように、教え、アウトプットしてきた者が一番理解し、成長し、得をしてきたのだ。
これが「勉強するのには他人に教えるのが一番良い手段」と言われてきた理由だ。
今の時代にはなおさらこれが当てはまる。

変化の時代には、皆不安が強くなるから、なおさら「教わって満足し、安心する人」と「チャレンジしてアウトプットして試行錯誤、失敗を積み上げる者」の差が生まれていく。

近年、勉強会やセミナーが盛んで、その動き自体はとても良いと思う。
しかし、その中での参加者や主催者の中でも、今回説明したような、教える側と教わる側の間の成長格差というものはドンドン進行していく。

私から言わせれば、勉強会などにお金を払って参加しているということは、無駄とまでは言わなくてもとても費用対効果が悪いトレーニングになりかねないという危険がある。
実は、勉強会やセミナーを主催し、チャレンジやアウトプットを1つでも多くしている者は、対価を得た上に成長までしてしまえる、好都合な位置取りなのだ。
しかも、まだまだ多くの人はそれに気づいていなかったり、その位置に向かって踏み込んでいけていない。

学習のしくみというものは、一見誰でも理解しているようでそうではない。
当たり前と思っている部分や細部から変化していかなくては自身は変わらないし、変わっていく世の中で生き残ってもいけない。

2012-05-24 09:00

(関連URL、追記2012-09-07)

払うべきか、稼ぐべきか – Chikirinの日記

ホームに帰って報告するときの体(てい)でふりかえりをする

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メッセージコントロールでも何でも_2日以上連続するようなものでは特に_教育やトレーニングでは、途中でそれまでのおさらいをかなりがっちりと時間を取ってやるようにしている。

その理由は3つある。

  • 教育の内容や目的が実践であるため。単に教養や知識を身につけるのではない
  • 要素が積み上げ式のものである。先に練習したものが次のものを覚えることによって消えてしまってはいけない
  • 他人の考え方や表現を知るため。メンタルヘルスをテーマにした、自分以外の人間とのコミュニケーションはすればするほど良い

実際には、少人数グループを作ってもらい、その中で前日やそこまでに出てきた教育内容や要素について、お互いに受け取り方や感じたこと、疑問点や難しくて悩んでいることなどをざっくばらんに話し合ってもらう。
この後には、それぞれのグループから討議内容を発表してもらい、全体での共有につなげたり、講師との質疑応答に移ったりすることも多い。

この少人数グループ内でふりかえりをしてもらうときのコツを少し。

ただ単に「これまで習ったことを話し合ってみましょう」とか「○○のポイントは何かを順番に言ってみましょう」というだけでは中々発言が出ず盛り上がりにくい場合がある。
こうしたときには、しゃべるシチュエーションを決めてあげたほうがスムーズに考えてもらえる。

例えば、
「職場に戻って、どんな研修を受けてきたか、上司に口頭で報告するとしたらどう話しますか?」
「家に帰って、今回の教育で発見したことやハッとしたこと、面白かった部分などを、家族に伝えたいと思ったら、何から話しましょうか?」
などのようにだ。

このとき私ならさらに、
「今回実践できるように身につけたことを説明するのだったら、ノートやメモを見ながら話したのではあんまり説得力がないですよねぇ。ぜひ今自分の頭の中にある、大事だと思うことをまとめて、自分の言葉で表現してみましょう!」
というような要望も出すかもしれない。
学んだことをそのまま正しく暗記したり、記録しておくことが重要なのではない。
多少ブレながらでも、量としては少なくても、現場で自分が自信を持って使えるものを増やしていって欲しいのだ。

学習というものは、インプットの量だけでなく、復習や習熟のレベルが大事だとはよく言われる。
その観点でのトレーニングが実践力や実力と呼べるものに直結するだろう。

2012-04-17 07:00

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メッセージコントロールを教えにくい理由(わけ)

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カウンセリングや日常のコミュニケーションで、メッセージコントロールを使っている。

(参考URL)

用語集 – NPO法人 メンタルレスキュー協会

(関連エントリ)

はじめはメッセージコントロールだけで十分 | deathhacks

メッセージコントロールが革命的である理屈 | deathhacks

メッセージコントロールを教えていたら演技指導をしているように思えた | deathhacks

メッセージコントロールについては現在のところ、NPO法人メンタルレスキュー協会(ホーム – NPO法人 メンタルレスキュー協会)の講習や会員や資格認定を受けた者の勉強会、あるいは書籍から学ぶことができる。

私も講習スタッフとして参加することがあるのだが、実際のところ、メッセージコントロールは教えにくい

もちろんそれは、その有効性やコツをつかんでもらうのが難しいとか、実践的なトレーニングを重ねるために場や仲間が必要だというからでもある。
しかし、メッセージコントロールを教えたり、学んだりする上では、もっと本質的、根源的な関門が存在する。

メッセージコントロールは、対面コミュニケーションの入り口として、基礎メッセージを出す。
その一つに「変わらなくていいよ」というメッセージがある。

ところが講習や勉強会という場で教えるということは、必然的に「変わりなさい」「今のままでは良くないですよ」という逆のメッセージにつながる(可能性が高い)のだ。

教えている内容が「変わらなくていいよ」から始めましょう、であるけれども、トレーニングということを目指せば、どこかの段階で「ここはこうした方がいい」「こう変えてみるともっと良くなる」というコミュニケーションが必要になってくるのだ。

このように、大げさに言えば内部矛盾を抱えながら、バランスをとっていくことが講師や講習スタッフとしての難しさとなっているのではないか。

こうした難しさやそれによる不安をマネージするには、自分自身が実践を重ね経験値を増やし、仲間らと議論を繰り返すことによって、確固たる概念を作り上げるしかない。

2012-03-25 08:00

Amazon.co.jp: 目からウロコのカウンセリング革命―メッセージコントロールという発想: 下園 壮太: 本

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勉強は楽しい

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好きなことだけを勉強するようにしている。

嫌いなことや苦手なことをいくら頑張っても続かない。
結局は身につかないし、時間もかかるし、効率が悪い。

今の世の中ならば、選択肢や情報が多様多彩にあるから、うまくノレないとか、学んでいてどうも自分がピンとこないと感じたら、いったん離れて別のことをしたり、保留にしたりしてみる。
運命的、地域的などの制約でとにかく目の前の学習、仕事をする以外に自由がないという時代ではないだろう。

子供の時は勉強が嫌とか将来のためとか、あまり複雑なことを考えたりしたことはなかった。
高校での勉強や受験勉強では、とにかく「やるべきこと」「憶えなくてはいけないこと」などに追い立てられ、追い詰められていたような感じ。
大学でも、試験の前に周りに合わせるように、辻褄を合わせるように、とりあえず暗記していたように思う。
そこに知的な興奮やワクワクはゼロではないにしろ乏しかった。

今ならば、本を読んだり、自分で思いついたり、議論したりしていて、自然と楽しく、笑顔になってしまったりする感覚がわかってきているから、自分のその感覚を信じてみることができるようになってきた。

小学生や中学生には教えてあげたくなる。
大人になると好きなことを自分で選んで勉強できるから楽しいよ、と。
しかもうまくすれば、勉強しながらお金をもらえたり、他人と感謝をやりとりしたりコミュニケーションをしたりすることもできるし、付いてくる、と。

大人になってみると、もちろん幸せで楽しくて良いことばかりがあるわけでもないけれど、「学ぶ」ことそれ自体や付随することの魅力が感じられるようになってきていることは、自分にとって一番の宝だ。

2012-03-09 08:00