年配、年上というだけの人からの人生アドバイスは役に立たない

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生き方に迷ったり、不安になったときに、経験者の助言というのはありがたいものだ。
しかし、それが実際に役に立つかどうかは当然未知数だ。
人生経験が少ない人間が頭を絞って考えたアイデアも、年寄りが持ち合わせた豊富な経験則から導き出したプランも、本質的に差はない。

歳を重ねた人間が、自分の半生を振り返ったときに、その中に教訓を見出すことは確かにできる。
重要な転機になった出来事や決心を見つけることができる。
進まなかったり、選ばなかったことにより、失敗を避け、破滅をまぬがれた岐路や転換点を思い返すことができる。

しかし、それらは錯覚である可能性が高い。
少なくとも、これからを生きていくために応用・適用することができない。

ある人が人生を回想したときに、様々な決心や選択をした場面でも、どこまでその時点から見た未来を予測していたか。
そして、その予測は当たっていたか。

どんな勉強をするか、部活動は何をやる、大学はどこにいく、何という会社に入り誰と結婚する、どんな習慣を身につける、本は何を読んだ、などなど。
過去にした選択が「今」の自分につながっていることを予測できていたという人は少ないのではないか。

人生のすべて、あるいはほとんどを、予想して計画通りに理詰めに選択して今があるとは言えないのではないか。

そうした人たちが、思い込んでいる因果関係を「経験」と称して、後輩や若輩らに「こうすればうまくいく」「これは今のうちにやっておいた方がいい」と指導したとしても、それが100%信用できるとは思えない。

それらの助言や過去の現実から、真理や普遍性を見つけようとすることは大切だが、自分自身が何に依るのかは自分で決め責任を取らなくてはいけない。
当たり前のこととして、過去は未来ではないし、すべての未来が過去に従うわけではない。

他人のものでも自分のものでも過去を疑わなくてはいけない。
過去そのものではなくても、事実に見える勝手に作り出した可能性のある因果関係に騙されないようにしなくてはいけない。

2012-03-22 08:00

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靴を買えなかった腹いせに

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靴を買おうと思って、仕事帰りに近くの店に寄ったのだが、店員が購入客対応をしていて、時間の関係上買うには至らなかった。
それが2回続いた。
こういうのは「縁」がなかったということなのだろうと最近はよく思う。

買う気ははっきりしていたので、販売側の立場になってみると機会損失が生じていてもったいないと感じた。

しかし、さらに考えてみると、お店に対して「あーあ、もったいない…」と思うのは、余計なお世話かもしれない。
半分は確実に、自分がわざわざ寄り道したのに、目的を達することができなかったことに関する不満を、「自分が損をしたのではなく、お店が損をしたのだ」「販売店が悔しがってくれたらちょっとは清々するかもね」という思考に変えて、気持ちの安定を得ようとする無意識が働いている。

別に今の世の中であれば、ある靴屋さんが、私を含めた潜在的な顧客をただの一人も逃してはならない、というビジネスは考えなくていい。
1つ1つの小ビジネスを軽んじてもいいというわけではないが、大局的・長期的見方をしていれば、適切なコストと損失というものは皆無ということはない。

逆に私にしてみれば、またいつかは腰を上げて、決心をし、靴をどこかで買わなくてはいけない。
そのタスクは、靴を履かない人生に切替でもしない限りなくなることはないだろう。
靴は嗜好品という面も確かにあるが、基本的には必需品だからだ。

こんな風に靴を買うにも、心理っぽいことや、ビジネスっぽいことをうだうだと考えている。

2012-03-16 07:00

忘れるオプション

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世の中、人それぞれ、忘れられないこと、忘れたくないことがある。
逆に、忘れたくても忘れられないこともある。

記憶に関して人間は不自由だ。
いくら試験勉強をしても内容が頭に残らない苦しさを知っている人は多いはずだ。

不自由だからこそ、ある物事を忘れる、忘れないという意思・選択については最大限の自由が確保されなくてはいけない。
場合によっては建前に過ぎないとしても、無理やり勉強漬けにして、他人に記憶や考えを入れこむことは許されない。

例え、100人、1000人の内、一人でも「忘れたい」「憶えていたくない」という人がいたならば、そのオプションは残されたほうがいい。

2012-03-12 08:00

(関連エントリ)

事故や災害によるストレスや記憶を処理する自由と多様性 | deathhacks

エコのトータルバランスから考えること

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エコロジーブームや節約・倹約の流行りで、家庭でも企業・組織でも、色々な工夫や試みがされている。

書き損じや印刷ミス、一時的資料を裏紙として束ねて、適当な大きさに切り、丁寧にも糊付けしてメモ冊子にして使っていることがある。

個人的にはこの「裏紙再利用メモ帳」は使いにくい。
よく考えないと問題もあると思っている。

自分はメモに書くにしても、ポストイットを使うにしても、最近数年は、その9割方を保存している。
保存しているといっても、オールインワンで連番を付けているノートに貼り付けるか、スキャンしてEvernoteに入れておくくらいのものでシステム的な蓄積はしていないが。

残りの約1割は、メモを人にあげるとか、メモの内容が余程スッキリと完了・完結していてもう不要だとか、ノートやTwitterなどに転記した場合になる。

なので、保存し、後で見なおしたりするメモとしては裏紙でないほうがいい。

何かしらでもメモ紙の裏側に関係のないことが印刷されていたりすると、自分が書いた表の内容が読みづらくなる。
裏紙はプリンタで印刷された濃くてはっきりした文字や図表、カラー画像なども少なくないので、表側の手書きメモよりもアテンションを奪ってしまう感じなのだ。

また、裏紙をメモ紙に転用する時点で、機密情報や個人情報などが印刷されたものではないということなのだが、それでもそれらの情報が不適切な場にまで広がっていく可能性を想像すると落ち着いて気軽に使えなくなってしまう。

というわけで、個人的には未使用状態のコピー用紙をそのまま使ったり、適当な大きさに切ってメモするか、ポストイットの75mm×75mmを使用することにしている。
会社などが経費として考えるか否かはまた別の問題だが、少なくとも私が自分個人の身銭を切ってツールを買い使う分にはリーズナブルだと感じる。

あとは、絶対的なコストと、少しでも世の中地球の資源を無駄に使わないようにしようというやり方の兼ね合いだろう。
コピー用紙500枚で600〜700円ならば(2012年3月11日現在)、製品としてだけのコストとしては許容できる。

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コストと言えば、裏紙を束ねてメモ帳に仕立てるコストは気になるし、考えたほうがいい。
この作業を高時給や時間当たり労働価値が高い人間がやったり、やらせたりすることは、全体として見ると損失が大きくなる。

いくら資源を有効利用するとか、節約をするとかいう良い目的があったとしても、誰も大統領や天皇陛下にメモ帳を手作りさせはしないだろう。
これは失礼とかいうのではなく役割の話だ。

もちろん、メモ帳を整備するような活動や作業を、余暇時間に行うとか、気分転換のためととらえるとかいうのは否定はしない。

こうした、「一見すると良い事」が本当に良い事で世のためになっているかどうかというのは大事だと思う。
ペットボトルの再生サイクルによって、物量的な資源は確かに節約できても、分別や運搬、再生用エネルギー消費などをトータルで考えると実はより高コストになっていたりするのも同じ理屈が当てはまる。

部分最適は全体最適ならず。
どのレベルで部分と全体を分けるか、とらえるか、考えるかということにこそ、人間・人類の強みは発揮できる。

2012-03-11 08:00

(関連URL)

【調査】約7割の企業「コピー用紙の裏紙使用」 

ニュー速ちゃんぬる 【コンプライアンス】コピー用紙の再利用はダメ! “もったいない精神”の落とし穴

緊張カミングアウトはルーキーだけに許される

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発表や仕事、スポーツなどで、そういった場が初めてだったり、経験が少ない人間が「今、実は緊張しています」と表明することがある。

これは正直とも取れるが、それによって受け手や聴き手、聴衆・観衆の評価が影響を受ける。

これが本当に皆が認め、初心者であることを知っている状況ならば、そしてその成否があまり重要ではないのならばOKだろう。
しかし、有料のサービスをするプロが、サービスの受け手である自分に対して、「スミマセンー。実は今日が初めてなのであまり自信がないのですがよろしくお願いします」と挨拶してきたとしたら、いつもいつも許せるとは限らないだろう。
試験や競技、コンテストなどの場で「まだまだ実力不足ですが、精一杯頑張ります」と自分の不安を認めてしまったことを、評価や判定の考慮に含めてしまったらいけないだろうというのも同じことだ。

誰でも、なにかしらについては初心者やルーキーの時代がある。
その始めの段階で、自分の内面の不安定さなどを周りと共有することには、感情移入してもらうことや、評価に裁量を加えてもらうというような、一定のメリットはある。

だが、ある時期を過ぎ、能力が向上し、それに応じた報酬や対価を得るようになったならば、「緊張カミングアウト」は逆の効果しかなくなる。
見る人、聞く人は、それだけの期待をし始めるからだ。

2012-03-10 09:00

(追記)
※関連エントリを自分で読み直して気づいたが、この「緊張カミングアウト」は「セルフハンディキャップ」だ。

(関連エントリ)

ガー・レイノルズの「裸のプレゼンター」を読みながら自分のプレゼンを振り返る – その2 | deathhacks

自分はルーキーだ | deathhacks

勉強は楽しい

20120308132318

好きなことだけを勉強するようにしている。

嫌いなことや苦手なことをいくら頑張っても続かない。
結局は身につかないし、時間もかかるし、効率が悪い。

今の世の中ならば、選択肢や情報が多様多彩にあるから、うまくノレないとか、学んでいてどうも自分がピンとこないと感じたら、いったん離れて別のことをしたり、保留にしたりしてみる。
運命的、地域的などの制約でとにかく目の前の学習、仕事をする以外に自由がないという時代ではないだろう。

子供の時は勉強が嫌とか将来のためとか、あまり複雑なことを考えたりしたことはなかった。
高校での勉強や受験勉強では、とにかく「やるべきこと」「憶えなくてはいけないこと」などに追い立てられ、追い詰められていたような感じ。
大学でも、試験の前に周りに合わせるように、辻褄を合わせるように、とりあえず暗記していたように思う。
そこに知的な興奮やワクワクはゼロではないにしろ乏しかった。

今ならば、本を読んだり、自分で思いついたり、議論したりしていて、自然と楽しく、笑顔になってしまったりする感覚がわかってきているから、自分のその感覚を信じてみることができるようになってきた。

小学生や中学生には教えてあげたくなる。
大人になると好きなことを自分で選んで勉強できるから楽しいよ、と。
しかもうまくすれば、勉強しながらお金をもらえたり、他人と感謝をやりとりしたりコミュニケーションをしたりすることもできるし、付いてくる、と。

大人になってみると、もちろん幸せで楽しくて良いことばかりがあるわけでもないけれど、「学ぶ」ことそれ自体や付随することの魅力が感じられるようになってきていることは、自分にとって一番の宝だ。

2012-03-09 08:00

公開や集合の場での質問はコワイ

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質問している本人は、「疑問に思っても当然のこと」を質問したつもり、あるいは相手の隙やミスを突いてやり込めたと思っていたとしても、周りの皆はその場で、質問する方とされる方の両者を同時に見ている。

質疑応答というシチュエーションでは、質問される人の実力がわかるのはもちろんだが、質問をした人間の能力や心理、性質までが、たとえ質問者が意識していなくても透けて見えてしまう。

よい質問をしたつもりでも、聞いている他の人たちは案外、「時間が無駄になった」とか「あんな重箱の隅をつつくようなことをしても誰も得をしないのに」と感じているかもしれない。

2012-03-05 10:00

(「質問」というキーワードがタイトルに入っている過去のエントリ)

質問は一度に一つがルール | deathhacks

世の中、質問に答えていないことがよくある | deathhacks

質問もアドバイスもするカウンセリング | deathhacks

クライアントの質問の背景と興味を考えて対応する | deathhacks

小グループ内で出た質問を共有しよう | deathhacks

質問には短くズバッと答える | deathhacks

オープン・クエスチョンは、あいまいな質問とは違う | deathhacks

質問がないのは聴き手の所為ではないよ | deathhacks

それは質問ではありませんでした | deathhacks

キアヌ・リーブスは質問に答えない | deathhacks

始める前に終わり方を決めておこう

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物事なんでも終わりや区切りが大事だ。
大事だ、とあらためて強調したり自分に言い聞かせたりする必要がある、ということは、意識していないとダラーッと過ごしてしまったり、苦手に感じているということでもあるのだけど。

まず、「何事にも終わりはある」ことを自覚する。
または「何事も終わらせなくてはいけない」

裏を返せば、常に「続けるかどうか」を自問自答する。
自分一人の中や周りでも、結構なコストがかかっているのに、惰性で続けているものは多くありうる。

小さなもので例をあげれば、ケータイやらオンラインWebサービスなどで、使っていないのに月々の定額コストが知らないうちにかかり続けていたりする。
そうしておいて、日々の生活で同じような金額をキリキリと節約したりしていてもバランスが悪い。

ある仕事を続けるかどうかも、大事な問題であるはずなのに、思考停止しやすいテーマだ。
もちろん時々の稼ぎがなければ、生活していく上での自由が少なくなるかもしれないが、本当に今やっている仕事を続けることが、様々な期間で考えて、どのようなメリットとデメリットがあるかを吟味する必要はある。

大事なのは辞める(止める)ことを意識すること、具体的な準備をしておくことだ。
具体的な準備や見積もりは、何かを始めるとき、あるいは何かを始める前に、早速しておくのが一つの理想だ。

こうした考え方は、最近目にした、ドラッカーの「決定しない、という決定も重要だ」という言葉や、「To-Do List だけではなく Not-To-Do List もつくっておく」というやり方に通じるところがある。

2012-03-04

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ソーシャルメディアと食品衛生の考え方で似ているところ

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いわゆるソーシャルメディアが盛んだ。
TwitterやFacebookは「当たり前にそこにあるもの」という扱いになっている。
「私の周りではそんなことはないぞ」と言う人もいるだろうが、これらのツールや言葉は、街の往来やファストフード、カフェで、サラリーパーソンや学生の会話の中にフツーに登場している。
それがどの程度の深さで利用されていて、いつまで持続するのか、あるいはPCやブロードバンド、ケータイのようにメジャーなインフラになっていくかはまだわからないが。

こうしたソーシャルメディアにおける新しい個人同士のコミュニケーションに伴って生じているのは、プライバシーをどのように管理するかという問題や、組織のイメージ戦略、ビジネス利用への試行錯誤などだ。

ビジネス利用については「ビッグデータ」というキーワードが今来ている。
ICTが普及・発達することによって、単独・子細な情報を膨大に集積・分析し、新たな価値を生み出すことが模索されている。

そしてICTとソーシャルメディアに関連したプライバシーや組織イメージ管理については、混乱や疑心暗鬼がまだまだ多くの人の中に先行している。
例えば、Twitterに悪口が書かれたとか、企業の秘密がバレたとか。
Facebookやブログなどに、たとえ事実だとしても、ある企業や組織の対外イメージを悪く言う、攻撃的な記事が載り、広く発信されることもある。
こうした「問題」への対策はどうしても後手後手になっているのが実状だ。

ただ、私自身はこのような「不安」について、それらを単純にリスクや悪いものと見て恐れてもしょうがないと考える。
よく言われることだが、ICTやソーシャルメディアはあくまでもツールや手段、インフラだ。
Twitterや「いわゆる学校闇(裏)サイト」などに誹謗中傷、悪意が書き込まれたとして、「ツール」だけをいくら規制したり、コントロール使用としても限界がすぐ来る。
別に、ツールや場があるから、こうした悪意や問題が人間の心に出現したわけではない。
元々あった意識や出来事がただ単に増幅され、可視化され、広まりやすくなっただけとも言える。

「陰口」というものは太古の昔からあったはずだ。
そのスケールが以前に比べると爆発的に大きくなっていて、怖い面は確かにあるが、その本質を見間違えてはいけない。

ある企業がネットで風評被害を受けたとする。
これは確かに由々しき問題だし、社会として管理や処理をされなくてはいけないかもしれない。
だが、一方で精神的な被害と経済的・物理的被害を切り分けて考えてもみるべきだ。

営利企業が風評被害を受けたとして、名誉が傷つけられたことと、利益が損なわれたことについての直接的因果関係を証明することは難しい。
考えようによっては、「別に悪口を言っている人間はいるかもしれないが、気にしなければいいことだし、ウチは正しいことをやって儲かっているからそれでいい」とも言えるのだ。

これは食品衛生の考え方、被害の段階分けで、食品が汚染されたような「気がする」という状態の精神的被害と、実際に食品が汚染されるなどして使えなくなる(経済的被害)あるいは汚染された食品を摂ることによって食中毒などは起きた(健康被害)というものは同じ被害でも、その重要度は変わるというのに似ている。
被害そのものの実質は変わらなくても、考え方次第で受けてのダメージが変わったり、あったはずのものが無視できる程度になったりするのだ。

世の中には変えられるものと変えられないものがある。
苦しさや怖さがあったとして、それが自分の外部にあるもので直接には何もできないものなのか、それとも実は自分の中にあって変えることができる可能性があるものなのかを冷静に判断することは新しいツールや時代の変化の中で生きていくためのコツの一つだ。

2012-03-01 07:00

1割がエラそう、9割フツー、という感覚

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今どきはもう多くないのかもしれないが、医療の中で、患者らは弱くて怯えている立場、医者らは偉そうにエバっているというステレオタイプなイメージがある。

私から見たり感じたりしても、確かに全体の1割内外の医者は威張っていたり、そう見えたり、空気が読めなかったり、社会性に疑問があったりするのかもしれない。
つまり、残りのほとんどは(そう言うのも実は変だが)まともで、ある程度以上にキチンとしているし、社会や組織の中でうまくやっているし、やっていけている。
さらに一部の医者らは極めて優秀で尊敬に値すると思う。
考えてみれば当たり前のことだ。

逆に私は医者や医療側が、一般の人らに別のかたちでサービスを提供する場を見たこともある。
場や状況が違えば、コミュニケーションやそれぞれの立ち居振る舞い、言動も変わる。
それでも、そんな人が大多数を占めるというのでもなく、ほとんどの人は「フツー」だし、互いに「フツーのコミュニケーション」をしている。
医療が平身低頭くらいにサービスをし、受け手側がやや傲慢くらいに振る舞っている国や文化も世の中にはあるだろうということだ。

いくら最高の技術とプライドがある医師たちでも、天皇陛下に対して上から目線の接し方はしないだろう。
(陛下がプロフェッショナルらを見下すようなこともありえないだろうけど)

人間は何か自分(だけ)に有利な状況や条件があれば、それを笠に着てさらに有利な状況を引き出したり保ったりしようとする。
戦略的に考えているわけではなくても、他人から大事にされたい、ほめられたい、サービスをされたいと自然に思って、時にそれは振る舞いや言動にはっきりと現れる。

こうしたことはヒト皆にある性質なのだろう。
人はそれぞれの立場や経験によって印象が変わり、世界や世の中はまったく違って見えてもいる。

2012-02-28 08:00

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