クライアントに恥の感覚を持たせてしまったら失格

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サービス業ではその内容によっては、クライアントの立場が結構弱いものがある。
サーブ側がそうは思っていなくてもクライアントが感謝を通り越して恐縮してしまうような分野だ。
もちろん対価のやり取りが直接または間接には行われているはずなのに。

このときプロのサービスならば、クライアントが過剰に萎縮したり、サービスを利用していることを恥ずかしいとか情けないとか感じることを認識しできる限りのケアをするべきだ。
サービスそのものは有益であっとしても、クライアントの心証悪くなったり負担感が大きくなりすぎて、トータルとしての結果の質や量が損なわれるかもしれないからだ。

とは言っても、対価に見合うだけのサービス、あるいは安全配慮や倫理的配慮をしているだけなのに、クライアントが遠慮をしたり、提案を固辞したり、恥を感じて苦しそうであったならばどうすればいいだろうか。

私は、定型的・画一的なサービス内容や安全管理や倫理的制約などが多少は保てないとしても、総合的なクライアントの利益を最大限にすることを目指してコントロールする、あるいはクライアントの最終意思決定を尊重することが、プロフェッショナルとしてのサービスだと思う。
そうした心構えをしていなくては、結局は「契約上のサービスをやりきらなくてはサーブ側の義務が果たせないから」とか「クライアントに何か問題が起こった時にサポートしていた自分が責任を感じることになってしまうから」というような、本質とずれたサービスに終わってしまう。
「結果として義務を果たしていないがクライアントは納得している」「クライアントの意思を尊重した結果が悪かったならばサーブ側としても正当な責任を負う」というような状況はサービス側が飲み込むべきコストやリスクだろう。

何かサービスをする時には、その言動や商品の一つひとつについて、単なる惰性や慣習の上にあるものではないか、クライアントのためというよりもサービス側の保身や満足のためになっていないかなどを近視眼的にも俯瞰的にもとらえることを意識したい。

2012-02-18 08:00

なぜヒトには感情があるのか

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「人間になぜ感情というものがあるのか」は私のテーマの一つになっている。

感情を、完璧ではないまでも、より理解したり、カウンセリングで扱ったり、自分自身のそれを知ったりするためには、感情の動きだけではなくその始まりについて考えることも必要だと思うからだ。
ちょうどある国の文化や人々を知るためには、その歴史を調べることも有効であるように。

私の今の仮説では、感情は論理や理性、知性と同時並行かもしくはもっとも新しくヒトに備わったシステムだろうというものだ。

感情は原始的で、理性が上位にくるのか | deathhacks

では感情がつくられた理由、もしくは感情を持ったヒトという種が少なくとも今現在かなりの繁栄をすることができている理由は何だろうか。
簡単に言えば、感情があると有利であるという理屈。

感情は、それこそ感情的に表現するならば、人生を豊かにするし、あるいは人生そのものだと考える人もいる。
一方で、感情があることによって苦しんだり、うつになったり、人生や他人、物事を呪いたくなったりもする。
こうした意味ではやっかいなものに見える。

感情の存在理由

感情が存在するメリットの一つは、感情は素早さと持続性の両者を備えているということから来ている。

例えば、ある人の目の前に突然が現れたとして、論理的な思考だけで対応するのが最善だろうか。

「これは熊だ」→「熊は一般的に人間よりも強い」→「熊はこちらに気づいているだろうか」→「逃げるべきか」→「隠れたほうがいい?」→「何か身を守る道具か武器になるものは近くにないか?」→「助けを呼ぼうか?」→「助けを呼んで近くに仲間はいるか? 呼んで間に合うか?」

このようなことを順番に考えていると、正解は出るかもしれないが、致命的に間に合わなかったりする。
ビジネスと同じで多少間違ったプランでも時間に間に合うことが最低限の条件であるようなものだ。

こうした「対応」では恐怖のような感情で動くことの方が確率的に有利かもしれない。

また別のケースでは、異性を愛する場合について考えてみる。

相手の収入はどうか?
ビジュアルは?
自分を好いてくれるか?
自分の味方になってくれるか?
相手の人間関係は自分にとって不利益なものはないか?
二人が一緒になったとして将来のプラスとマイナスはどちらが多くなるか?

こういったことを厳密に計算することが悪いのでも、絶対に愛情というものとは相容れないと言うつもりはないが、時にこれらの問いに対してすべて最悪の結果が予想されたとしても、結論を180度ひっくり返してしまうこともありうるのが愛情という感情だ。
愛情は「熊対応」のように瞬間的に生じる(生じたように見える)こともあり、さらには持続的に続いたりもする。
いちいち定期的にメリットとデメリットを計算をし直すのは実のところ骨が折れるので、その部分の思考を停止させてあきらめさせたり忘れさせたりするような作用が愛情にはあるのではないか。

このようにヒトは高度に論理的な思考や抽象的概念などを操ることで、失われてしまった単純な反応を別の形で取り戻し並行して活用できるように、感情というものを生み出し、持っているというのが私の仮説だ。

この辺りのアイデアは元々、メンターからもらったものなので私のオリジナルではないのだが、まったく同じものでもないだろう。
いずれ答え合わせのようなことをしたい。

2012-02-15 08:00

感情は原始的で、理性が上位にくるのか

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言動が感情にふりまわされるさまは「動物みたいだ」とか、最悪の場合「鬼畜である」というように評される。
このように考えられるのは次のような常識があるからではないか。

  • 人間は動物よりも高度に進化した上等・上位の種である
  • 原則として、理性や知能というものは、本能や感情よりも間違わず、これもまた優秀かつ上位の機能である

しかし、私の考察と想像では、感情が原始的なもので、理性や論理的思考が上級で、進化によってヒトに備わった資質というわけではない。
感情と理性は、はっきりと上下関係や支配あるいは主従関係にはない。
もしくはむしろ感情のほうが生き物としては非原始的な要素だと思う。

人間は複雑な概念や言語、時間や科学といったものを集団で発展させる過程で、それを単純にひとまとめにしたり、ある種の安全装置として感情を身につけた(または感情を持たない種は淘汰された)のだろう。

論理的に考えれば、個としての自分に直接に得にならない行動を継続して家族を養ったり社会に貢献したりすることはそれほど合理性がなかったりしないか。
不安や後悔という感情は時間というものを頭の中に生み出し、社会が動くのに不可欠の要素としなければ、実はこれほど強烈に人間の思考や行動に影響を与えることはなかったのではないか。

もちろんこれらにはそれぞれすべてにメリットとデメリット、または個人としては合理的ではなくても集団や社会としての利益が大きいもの、あるいはその逆があったりもする。

呼吸をしたり心臓を規則的に動かしたり睡眠と覚醒のサイクルを調整したり食物を摂(獲)らせたりするための本能は確かに生き物としてはより基本的な機能だろう。
つまり原始的ということだ。
一定以上に複雑なしくみを持つ生物はこれらの能力なしには生命を維持することが難しい。
その点ではヒトも動物などと同じように支配されていると言える。

しかし、現代の人間やその社会には愛情や功名心、羞恥心や物欲、不安や後悔、焦りといったそれらそのものが生きる上で本当に必要なのか不可欠なのかわからなかったり、どう考えても害悪にしかならないのではないかとう感情や思考がある。
その部分を理解するためには、感情が何であるか、なぜ感情があるか、動物には感情があるか、果たして人間は動物よりもはるかに優れた種なのかなどを考えてみると良いと思う。

2012-02-13 08:00

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他人を助けたくて勉強したりカウンセリングしたりしているのではない

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私がなぜ心理業界やカウンセリングに興味を持ち、仕事や勉強として携わっているのか。
自分でも折に触れ考えるし、人から尋ねられることもある。
別にこの質問に答えられないと業界に関わってはいけないとか、不適切な回答や動機が存在するというわけでもないけれど。

同じ質問への他人の答えとしてよくありそうなものが「自分がクライアントとして心理臨床や医療に助けられたから、同じようなことを今度は別の人にしたい」というものや「人事や経営など、元々の業務上で心理やカウンセリングについて知る機会や学ぶ必要性が出てきて」
というものだろう。

もちろん私だって、「ただなんとなく何かを勉強したいと思って、たまたまそれが心理だった」というわけでも「自分を一番活かして稼げそうな業界だから」というような流れでもなく、やはり偶然にではあるが身近に心理やカウンセリングというものやわずかな必要性があったようには思う。
ただし今、少なくとも、せっぱ詰まった気持ちで「他人を助けたい」と単純に思って、それが動機やモチベーションになっているのとはちょっと違っている。

どちらかというと「あるべき状態がない」ことが許せなかったり不思議だったりする感覚を持っている。
目の前に食べられるものがあるのに飢えている人がいる感じ。
知識さえあれば食材や素材は身近にあり、道具や調理を適切にすれば苦しまなくていいはずなのに。

心理やカウンセリングには、日常や常識に取り込めて、自然に誰もが手に取り、使えるような切り口やノウハウが、他の業界や分野に比べても特に多くあるのではないか。
自分の足だけで移動して生活すること自体は別に悪いことではないが、例えば自転車がありそれに乗れれば驚くほど行動範囲は広がるし労力は減らすことができる。
自転車について言えば、ちょっとした練習で多くの人は扱うことができるし、ルールを守りさえすれば免許や誰かの許可も要らない便利なツールだ。
同じようなことを心理の分野でもすでに起こっていたり、これからもたらすことができたりするのではないかというのが私がなんとなく考えていることだ。

結果として、誰か苦しんでいる人が助かり、誰かや何かに感謝をしたりするかもしれないが、その元になるものは皆が元々持っていて社会全体が共有するのが当然なのではないか。

2012-02-12 12:00

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給料をもらい、昇給することで得られる自信

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公務員として去年まで勤めていたときには考えたことがなかったのだが、日本で被雇用によって受け取る給与額の根拠はあいまいなものであることが多いのではないか。

ある業務を勤勉に継続的にこなしていたとして、その成果の分配を受けるのはまあ、その額が妥当かどうかは置いておいていいとしよう。
しかし、その額が定期的に上がる、つまり定期昇給という制度があったとしたら特にその部分については不可解さが感じられる。

要するに同じ仕事を同じ環境で同じ人がしていたとして、給料が上がる理由がない。
もちろん何か資格を新たに得たとか、何かしらの試験やチェックで能力の向上が定量できたとかの条件があれば、その人物を雇用し続けるために人材価値の分を上乗せしていく市場作用はあるだろう。

こんなことを考えたのは、自分の過去の繰越した預金通帳を通して数年分見返してみて、案外じわじわとだが着実に手取り収入が増えてきていたということを再確認したからだ。
もちろんその間には組織内での位付けが上がったり、ポストが変わったり、転勤をしたりはしている。
しかし、自分が何か成長したとか、人材として能力が高まったとかいう具体的な証拠を挙げることは難しい。
もちろん経験知的な向上はあったはずだが、それは流動的な市場で確実に評価してもらえるものでもない。

今回の話を強引に心理的な観点から考えるならば、資本主義社会での被雇用による給与額は自信の根拠となる大きな一つの要素だということだ。
ある仕事をして、目に見え記録や記憶に残るような成果を残したり、感謝や賞賛を受けるということでも人は自信を得るだろうが、それを金銭というもので評価され受け取るということはもっともわかりやすい指標になる。
これは逆に、他者や集団などに感謝等の気持ちを表現するのに、金銭を通して伝えるということも同じことだし、社会や国家に対して税金を納めることによって貢献していたり共存関係を維持したりすることにも通じる。

お金、貨幣経済システムというものは、経済を流動的にするための柔軟な循環であると同時に、人々の日々の自信や安心といった感情やそれぞれ同士の関係を仲介するツールになっている。

2012-02-08 08:00

「わからない」ということ

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昨日は二人から同時に「〇〇さん(ちゃん。私のこと)って何を考えているかわかりにくい」「機嫌が良いのか悪いのか会ってもすぐに読めない」「なんでこないだ、ああしたのか不思議だ」などとなかなか率直な指摘を受けた。

「わからない」ことを受け入れる

世の中、考えれば当然だが、わかること、理解できることばかりではない。
何かの分野で8、9割を理解したとしても、残りの1、2割を自分のものにするには時間も労力もかかることがありうる。
もちろん完璧や100%を目指すこと自体は悪いことではないが、「まあ、こんなもんで今はいいかな」とか「しばらく放っておこー」というくらいのいい加減さ、あるいは現状をそのまま受け取る覚悟のようなものはあってもいいと思う。

「わからない」と感情を分ける

わからないことに対する不安というものは誰にでもある。
裏を返せば、多くの人は情報や知識・能力があればあるほど、安全だったり、物事がうまくいく上手くやれると経験などから知っていて、安心することができる。
しかし、上にも書いたように現実として未知や限界はある。
そのときに感じる不安や物足りなさ、焦りなどは果たしてメリットとデメリットのどちらが大きいだろうか。
「未知のものに対する好奇心は人間の本能ではないか」「足りなさを感じて補おうとすることは成長の原動力になる」という意見はあるかもしれない。
ただ、純粋な好奇心と不安や焦りは分けるなり、敏感に感じ取って認識しておく方がいいものだ。

「わからない」と能力を切り離す

わからないことに居心地の悪さを感じると、原因が知りたくなる。
他人の気持ちや考え方がわからないとなると考えられる理由には何があるだろう。
この理由に能力を結び付けたくなるのではないか。
相手の表現が変わっているのではないか、隠しているのではないか、コミュニケーション技術に問題があるのではないか、などなど。
あるいは、自分が他人の感情を読み取るのが下手なのではないか、経験が不足しているのではにないか、嫌われているのではないか、と。
しかし、先にも述べたように、ただあるがままに誰の力が足りていないというのでもなくわからないということはよくある。
感情と同じく、割りきって、「不思議なこともあるものだ」「変わった人がいるなー」くらいにある意味冷めた視点を持てばいいのじゃないか。

私自身は筋が通っているつもり

私自身は、特に人を煙に巻くとか、奇行で目立とうとかそんな意図はない(と思う)
いたって素の言動、感情表現、コミュニケーションをしているつもりだ。
しかし、今回書いたようなことの逆の了解として、出逢う人すべてに、100%わかってもらうとか好かれるとかいうことは期待していない。
挑戦としては興味深いけれども。

ただただ、なるたけ純粋に、生きてみようなどと思っている。
それは時には、極端に言うと「狂気的なもの」だったり、他人が「傷つけられた」「怖い」「嫌だ」と評価するものだったりするのかもとは思う。

2012-01-29 10:00

チームが意思決定するときには事前に準備しておくことがある

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選択はまったくの自由なのだが、ある仕事を為すためには、一人でやるか複数人のチームでやるかに分けられる。
そしてチームを組むことを選んだ場合に仕事そのものではなく、システムとして重要な要素が、リーダーシップと意思決定だ。

リーダーシップとは、チームや組織の具体的な大目標や方向性が決まった状況で、チームの一人ひとりが最大限活躍し成長し満足が得られ、かつ組織全体としても成果を上げ目標を達成するためのマネジメントのこ
とだ。
リーダーシップについては今この本を読んでみている。

リーダーシップの心理学 (講談社現代新書 (725))
国分 康孝
講談社
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さて、もう一つの要素の意思決定について。
これはいわゆる民主的な運営スタイルを取っているチームや組織の中で行われる合議や相談にあたり、ツールとしては多数決などが使われる。
組織内であらかじめ権限や責任がはっきりと分担されていれば(リーダーシップも分担された役割の一つだとも考えられる)、普段は各人それぞれが自分の範疇の仕事を小判断・小決定をしながら進め、必要な段階や対象、重大性があるときに意思決定という組織業務が現れることになる。

複数人が情報や意見を出し合い、状況判断や方針決定をするとき、もしくはそうした仕事が予想されるときに大事なことは以下のようなことだ。

  • 意見が食い違ったときにどう処理をするのかを先に決めておく。多数決でも、原則全員一致でも、(意見が割れたときには)最上位者に一任するでも、どれでも良いと思う。ただし、話し合いや決定をする段階の前にやり方を決めるべきだ。でないと、それぞれが自分の存在や意思を尊重された感じにならず不満の元になる。多数決の結果が反故にされ、上位者や押しの強い人間の意見が優先される結果になるなどのように。
  • 議論や意思決定の過程を記録すること。誰がどういう意見を出したか、多数決をしたときの少数意見としてどういうものがあったか、折衷を図ったかなど。これは一つ目の「意思決定のやり方」にも関連する。最終的に出す結果はシンプルであっても、反対意見や少数意見が最後まで懸案事項として残ったのか、それとも説得されたのか、あるいはトップが強権的に責任を持って裁量したのかということを曖昧にしないためだ。ここが曖昧だと繰り返し同様の会議をしたときに振り返ることができず、組織の一貫性が落ちる。
  • 上記2点を踏まえた上でも、複数人が会議し意思決定をしたならば、その決定事項は会議参加者以外から見れば参加者全員の成果だと見なされる。例えば後から「自分は最後まで反対をしていた」とか「リスクに気づいていた」などと言ってもいいが、それは単なる事実であって、責任を減らす役目にはあまりならない。それが意思決定や会議というものだと思う。

2012-01-28 09:00

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知る必要のない秘密を聞いてしまうこと

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世の中、思っている以上に秘密というものはいっぱいある。

知りたくなってしまうという秘密はもちろんある。
人には好奇心というものがあるから。
本能的に、より多くの知識や情報があると生存や快を得るのに有利だということをわかっているということもある。

場合は少ないかもしれないが、聞いてしまったあとに「聞かなければ良かった」と感じるような秘密もある。
物事を忘れないようにしたり、憶えておこうとするためには普通意識的な努力が必要だが、逆にわざと忘れようとして苦労し苦しむこともある。
不快な思い出やトラウマ的な出来事が記憶に残り続け、繰り返し頭の中で再生されることが人生に大きな影響を与えることが実際にあり得る。

情報の量が増え、社会が豊かで複雑になった現代では、一度知ってしまったからといって、思考としても立場としてもそのことを知らなかった以前の状態に戻ることができないということが存在する。

秘密を話す側は特別意識をしていなかったとしても、知っているはずの無かった秘密を聞いた人間は、今度は秘密を守る立場になってしまったりする。
それは難しいことではないかもしれないが、こころのリソースをいくぶんか消費し続けたりするのでちょっとやっかいに思う。

こんなときには、そもそも秘密をなるべく作らないようにすればいいのにとも考えてしまう。

2012-01-22 12:00

現代社会が信用から成り立っているということ

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現金支払主義の人は貨幣経済も、ある種の信用の上に成り立っていることをどう認識しているのだろうか。
クレジットカードや手形などでの取引や商売、株式の市場など、今の経済はその大もとが実体としてあるわけではない。

ただ、これは程度の問題だからそれこそ人それぞれの価値観が違っていても当然だ。
片方がもう一方を簡単に否定することはできないということ。

考えてみると、社会や人間関係の中で、科学的・論理的に証明できるものや定量して数値化できるものごとはとても乏しい。
人物の信用というものが何で決まるのか、どんな要素が影響するのかというのは難しい。

カウンセリングでも結論が「何を言うかではなく、誰が言うかが大事だ」というものになってしまったりすることも多い。
しかし、私はなんとかこのような、得てして「どうせ考えても意味はないんじゃないか」という結論に反抗して、少なくとも超短期的にでも普遍的な理論や技術を考え続けていきたい。

2012-01-19 10:00

情報の圧縮と増幅が文化を間違わせる

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ある場所やコミュニティ、社会の文化というものはどのように作られるのか。

まず一つにはその事柄についての優劣によって取捨選択や淘汰がなされるだろう。
腕力が強いものが生存に有利で得をする場面が多いのならば、たいていそこにグループができ、格差を利用した政治や商売などが生まれてくる。
そこにはさらに、尊敬や愛情というようないわゆるポジティブな感覚も並んでくる。
もちろん一般にマイナスな要素も同じように現れるのが常だ。

つまり、事柄の優劣に加えてもう一つの要素として、多数の原理が文化の成り立ちに関係する。
より多くの人間が価値が高いと認めた方向に社会全体が向かっていくということだ。
直接にしろ間接にしろ、民主主義や民主的な選挙のようなシステムが使われているのが当たり前ということはない。
そこには様々なコストや努力が払われている。

選挙というものは、日本の間接的な投票選挙も含め、時間もお金も大量にかかるから頻繁にあらゆることの決定に使うことはできない。
どんな服装や髪型が流行るか、男女関係はどうあるべきか、家族はどのように暮らすべきか、どんな職業や仕事に人気が集まるかなどは選挙で決めたりはしない。
それらは無数の連続的・継続的な優劣の判断と多数の原則で決まっていき、決まったらば個人を縛ったり、影響を与えたりする文化というものになっていく。
これは「時代の空気」や「雰囲気」がつくられていくということだ。

こうした文化や「空気」が形作られる過程では、今まではなかなか一部の個人の思惑が集団の文化を決めてしまうということは少なかった。
少なかったとは言っても、例えばヒトラーが代表してドイツ全体を動かしたり、日本が大戦に参戦していくのにマスメディアが引率する大きな力になっていたりということは実際にありえた。
例として出したこれら歴史上の出来事はとてつもなく大きいものであったが、数や期間としては大部分を占めるものではなかったということには多少の救いがある。

しかし、今では技術やメディアの発達と個人への浸透によって、こうした文化や空気作りの元になる情報の伝達や広がり、交換の質も量も爆発的に増えた。
増幅だけではなく、それら情報はとてつもなく圧縮されてもいる。
一次情報自体は人数比やその教育の成熟度の増加で確かに増えているが、それ以上に上に挙げたような技術やツールによって二次情報、三次情報等が増えている。

そして情報は増え、密度が高くなればなるほど単純に総合的な質も確実に上がるとは言えない。
決してそれ自体が悪いことではなく、単なる流れであり、善悪の色が付いているものではない。
けれども、長い目で見た時に間違った空気が流行ったり、誰の得にもならないような文化が発生して広がるチャンスは確実に増えている。

2012-01-18 14:00