臨床心理を勉強する入りの難しさ

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心理学や臨床心理を勉強したいとか仕事にしたいというからには、何らかのきっかけや動機があるはずだ。

その動機などの性質は大きく分けて2種類になる。
その人自身が健全な状態から入っていくのと、不健全な状態を体験するなどして入るのと、だ。

健全から入っていくと、

  • 他人を無遠慮に分析し過ぎ、介入がオーバーになる
  • クライアントに対して、共感できない、しにくい
  • 自己分析の有効性、有益性、必要性、モチベーションに気づきにくい、または実感しにくい

などの問題がある。

また、不健全から入ったならば、

  • まだ、自身が十分に健全ではないのに、クライアントを持ち、介入・処置・操作・教育などをして失敗する
  • 逆転移や共依存などに近づきやすい。知識として知っていても、自分の傾向やその状態に気づかなかったりする

ということが生じる確率が高い。

現実やその良否の判断はさてあれ、自己分析と他者分析をバランス良く保ち続けるのは、趣味としてであれ、業としてであれ、トレーニングとしてであれ。難しい。

2012-08-24 08:00

メンタルヘルスを支援する人がダークサイドに落ちる

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メンタルヘルスに携わる人ら自身が、メンタルヘルス上で不調をきたしたり、非倫理的な言動をする結果になるのは由々しき問題だ。
だが、実際にはよく見かける。

太く短く活動しようとして、あるいは意図せずそうなってしまい、結局活動や仕事の中間決算収支がマイナスになってしまう。
理論や志は、少なくとも元々は素晴らしいものだったはずなのに、モッタイナイ。

始めから、自己実現だけが唯一の目的の人もいる。
途中から悪に身を染める人がいる。
かえって他人に外を為す人がいる。
事故破滅的に潰れていく人もいる。

こうした残念な人や場面、情報を見聞きするたびに、私自身、どんな状態だろうかとか、今後のプラスとマイナスのバランスや気持ちのいい自己実現を達するためにはどう工夫をしていこうかとか考える。

支援者側のメンタルヘルスについては、まだまだ研究のテーマとしても量としてもこれからの段階だが、まったく注目されていないわけではない。

このテーマを考えると、現場感覚を何より重視するやり方の功罪、特にその罪の面が気になる。
アカデミックな人らは、不自由で、遠回りかもしれないが、個人個人のそれではないしっかりとした基準や線引きを外部に持つことにすりから、現場に埋没して自己や他人を破壊するリスクは少ないように思える。

2012-08-10 08:00

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精神分析へのシンニュウ

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精神分析に踏み込んでいくと、軽々しくカウンセリングを続けていくのが怖くなりそうだ。

今読んでいるのはコレ。

サイコセラピー練習帳―グレーテルの宝捜し
丸田 俊彦
岩崎学術出版社
売り上げランキング: 41658

精神分析の初歩からの本ではあるが、かなり大胆に工夫がこらしてあり、逆に難解なのか取っ付きやすいのか、読みながら思案している。

ただ、こうしてまた、新しい、自分が勉強をサボり、あるいは避けていた分野も、きっかけを持って近づくと、それを得ることによって出てくる自身の可能性を感じる。

実際、元々私が「心理」に近づいた経緯や先入観にも似たようなことがあった。

心理学に偏見を持っていました | deathhacks

あっちこっちに首を突っ込んでいては、「二兎を追う者は一兎をも得ず」になってしまうだろうが、現場主義一辺倒やメッセージコントロールだけでは限界を感じやすかったり、対照が取れない不便さがある。

他人と同じような研究や興味では埋もれてしまうだろうし。

自分としては今はこのまま、hybrid に吸収し研究していき、niche を狙っていこうと思う。

2012-06-18 08:00

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商品と営業を分けてはいけない

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商品およびその開発と、それを売るための営業は、機能としては分けて考えても良いのだが、現実的に突き詰めるとそれら2つがいかに不可分かを思い知る。

良い商品がありさえすれば、営業コストは限りなく小さくなるということはあり得る。
一時的にでも、需要と供給のバランスが偏れば、これもまたわざわざ営業をして売り込まなくても十分に売り上げが上がっていくかもしれない。
ブランディングがうまくいけば同様の状態は長期的に維持できる可能性もある。

逆に、いくら商品が悪いもの、普通の製品で競争力がなかったとしても、営業力、営業努力、営業コストはコストが高ければ、製品の実力以上に売れてしまうということもあるだろう。

とは言っても、最近この論理に疑問を感じることもある。
商品が優れている、あるいは少なくとも営業をする人間がその商品をよく知っていて、良いものだと本気で思っていなくて、売り込むことができるだろうか。
やはり、「思い」がなくては他人にサービスを販売することは心理的に抵抗があるし、続けていくことはできない。

横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」では、「正確で価値のある読者や社会のためを十分に考えた記事を紙面に載せたいという思い」を抱えた新聞社の編集部署と、「記事なんて大事じゃない。俺たちに任せておけば白紙の新聞だって売ってきてやる」とうそぶく営業部署との対立シーンがある。
極端な話だが、ここまででなくても、会社組織で、製品やサービスを売っているのであれば、自分たちがそれを世の中に提供していることの意味や仕事に誇りを持てるか否かというような悩みや葛藤を感じることは多いのではないか。

営利組織に属していれば、個人のプライドや満足度は必ずしも組織全体のそれや、別の所属者のそれとは合致しないだろう。

少なくとも商品や製品を売る段になってから「これって売れたとして、顧客に喜んでもらえるのだろうか」とか「このサービスでクライアントの問題が果たして解決するのかね」というような疑問を営業者が考え込んでしまうような可能性と深さの程度を最小限にするようなプロダクトを作りたいものだ。

2012-06-13 14:00

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クライマーズ・ハイ (文春文庫)
横山 秀夫
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自分を作っている要素の内訳と比率

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メンタルヘルス業界・分野でボチボチやっている。

自分のやっていることの内容はさて置いて、そのアウトプットの元になっているものは何だろうか、何処から来ているのだろうかと考えてみる。

およそそれらは3箇所から来ているのではないかと思う。

一つは経験、一つは常識、そしてもう一つは勉強だ。

経験

経験。
それは2番めに上げている常識とあまり違いがないのではないかと思うかもしれないが、ここでは主にメンタルヘルスの現場や惨事介入、カウンセリングなどの現場で学んだことという意味だ。
おかげ様でめちゃくちゃに豊富ということはないが、結構貴重な経験の場を持ってきたと思う。
自分にとってこれ以上はなかなか望めなかったのではないかとも思う。

さらには、今後のことを考えて、一時的にはチャンスが減るかもしれないが、自分の環境を大きく変えてみることもしてみたわけで。

生活の河岸を変える | deathhacks

常識

常識。
これは自分の価値観や過去の生き方、体験から形作られる。
別にどんなところに出しても恥ずかしくないものを持っているとかいう自信があるわけではない。
しかし、できるだけ多様な意見や色々な人をみて、接して、「使える常識」、「軸にしてもよさそうなレベルの常識」を常に準備・整備しておきたい。

カウンセリングは常識が8割 | deathhacks

カウンセラーは健全でなくてはならぬ | deathhacks

勉強

最後に、勉強。
すでにあるもの、わかっていること、先人の研究などを知らないこと、知ろうとしないこと、知らない怖さを知らないこと、これらはすべて怖い。

より多くを適切に勉強して知っておくことで、現場で失敗してしまうのを防げるかもしれない。
クライアントや自分のリスクを上手にコントロールできるかもしれない。

人生は短いから、全部を一から自分で調べたり考えたりする必要はない。
経験とも重なるが、現場にアウトプットして、世の中を変えていくような効率的な勉強をしたい。
無駄に勉強して、自分の時間を無駄にすることは、自分をまず大切にしていないし苦しく感じてしまうがどうだろうか。

まとめ

自分の中にある要素を3つに分けて考えてみた。
経験、常識、勉強。

これらのバランスと、そのときどきに充実させていく順番には恵まれているのではないかと思う。

自分を曲げるとか、他人や社会から孤立するような流れで常識を損なうことは、我ながらまあそんなに多くない。

経験はいくらでも欲しいというのが正直なところだが、現場に追われすぎるのも良くないから、ぜいたくは言えなかろう。
日々ドンドン将来への種はまいておこう。

勉強も、頭でっかちになりすぎないようにしたい。
一方で、学んでいく好奇心が衰えてしまったらそこでジエンドだとも思う。

2012-06-09 11:00

心理って難しい

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心理の難しさにはいくつか理由がある。
それは、記録が残っていない過去を分析したり、情報の無い中で未来を予測したりするようなものだからだ。

心理は「考え続けるのが難しい」

心理やそこから起きる人間の言動には、区切りはあっても終わりは無い(区切りすら無いように見えることも多い)。
一度正解にたどり着いたように思えても、その地位は絶対に安泰ではない。

心理は「考える必要があるときにはたいていピンチである」

心理や関連するトラブル・悩み、それらをうまく扱いたいと思うときは、気持ちも追い込まれ冷静になりにくい。
正しいことを追求したいと思うことは悪いことではないが、現場では間に合わないかもしれない。
私個人はそういう「学問」を高く評価しにくい。

プロは間違う、学者は正しい | deathhacks

心理は「あらゆる変化に対応しなくてはいけない」

私が考える心理は実学、実践的な営みだ。
以前はちょっと違う考え方をしていたけれども。

心理学に偏見を持っていました | deathhacks

心理が扱うものは無形の内面や内心だ。
しかし、そこには他人や社会、自然や環境というような外部が影響を与える。
人間の内面で何が起こっていて、何が起こっていないにしても、結局はその外部からに影響に対する反応こそが心理だ。

社会や環境が変化していっている(ように思える)のだから、その研究や処理も常に変化対応していく必要がある。

心理は「原則が当てはまらない」

心理で扱うものは、個人やそれぞれに中身が異なる組織・コミュニティだ。
それらの違いはまったく無視できない。

いくら研究や学習をしても、現場でその個別性にぶつかって、一から戦略・戦術を組み直したり、原則や常識と真逆のことをすることになることなどしょっちゅうだ。
もちろん、軸となるような常識や過去の知見から生み出された原則は持っていなくてはいけない。
しかし、それが現場、つまり格闘技で言うところのリングや、生き死にがかかるような実戦的な戦場で、そのままに自分やクライアント・仲間の身を守ってくれると信じ切ってはいけない。

要は、世の中がすべて原則と例外からできているということ、その比率の適当な見きわめをするのが大事だということ。

まとめ、のようなもの

ストレスや悩み、うつなどを標準化、可視化、定量化するという試みは様々ある。
「幸せ」や「快」というものを測ることができるようになったら、それらも可能になるかもしれない。
私自身の気持ちよさですら、なかなか見極められないのだけど。

2012-06-05 08:00

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人間のほうを研究しています

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最近また、自分の今後の身の振り方、行く末を考えている。
これまでも折に触れて繰り返して考えてはいる。
例えばそれがある程度明確な指針のようなものにまでできれば個人人生のミッションステートメントとも言える。

自分のミッションステートメントを考えてみた | deathhacks

ミッションステートメント、と言ってしまうと何かクレドや年間計画のように、行動や決心を縛る制約としての面が大きい気もしてくるので、もう少しゆるく、あらためて自分が何を好むのか、今何に興味があるのか、何をして何を考えているときが一番楽しくて興奮するのかを観察してみる。

今の興味対象は断然「人間」だ。
しかし、人間に興味がないとか言い出す人がいたらちょっとしたビョーキだろう。
また、人間観察と言えば、他人に趣味を聞かれて何か無難に回答しておいたみたいな印象も受ける。

「人間」をテーマにすると言っても、その切り口は様々だ。

人間を個体・個人として見ることもできるし、人間同士の繋がりを考えるとそれは社会というものを観察することになっていく。

人間のトラブルを身体的に捉えれば医学や・科学・化学などがものさし・ツールとして役に立つ。
心理やストレスという精神的な面を見ていけばカウンセリングやPTSDなどの括りになる。

人間としてのトータルな幸せとは何か、と考え詰めていけば快や不快を扱い、法律や政治・宗教などに向かってもいい。

会社や人事、災害、数学、うつ、楽しみ、心、争いなど、当然と言えば当然だが、この世に人間がその存在を認識したからには人間と無関係のものは結局あり得ない。

ということで、今の自分については焦点はまとまらないし、まとめなくても良いと思うのだが、人間やその「周辺」を、広く、ときに深く興味の赴くままに生活している。

2012-06-01 07:00

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ワレイガイミナワガシ

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あらためて、日常のあらゆるものから学ぶことができる、ということを実感している。

色々フラッと立ち寄ったり、偶然出会ったものを眺めたり、そうして見たもの、気づいたこと、感じたことが、私であれば今もっとも関心を持っている、心理研究やカウンセリングに役立つ。

人間は世の中あらゆることに関わっているし、世界から影響を受けている。
そこでの個人や集団、社会の有り様や動きは、どれほど分野や見かけが違っていても心理的な視点で見て参考になるし、同様のものを適用できる。
人間そのもののしくみや心理は同じだからだ。

「あらゆるものがヒントになり、学ぶ素材になる」
本質は一緒だからだ。
「本質は一緒」というのもメタに考えると、それ自体「本質」でもある。

今回私は「都道府県対抗なぎなた大会」をふらと観に行って、様々な興味深いことに気づいたり発想したりすることができた。

港区公式ホームページ/港区スポーツセンターで「第53回都道府県対抗なぎなた大会」を開催します!

競技自体を元々よく知っているわけではないし、経験があるとかいうのでもない。
場所や「スポーツ・競技」というカテゴリーそのもの、そしてそれに参加したり運営したりしている人や組織など、そういったものに興味がそそられる。

こうした、普段自分が生きて生活している分野や業界とはまったく違うところで、感覚を敏感にして、色々と観察し、発見することはとても楽しく、有意義だ。

私のメンターの一人も座右の銘にしている。
「我以外皆我師」だと。

我以外皆我師 – Google検索

2012-05-28 07:00

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学ぶことのルールが変わった

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私が思うに、物事を学ぶことのルールが変わってきている。
事実や知識をインプットしたり、受け取ったりしているだけでは、本来得られるものの半分にも満たないし、学習したことにはならない。
アウトプットする以外に、真の学習や成長はない。

いや、確かに大昔から同じ事は言われてきている。
「教わるだけではなく、他人に教えることで知識や技術が本当に自分のものになる」というのはそこここで聞かれてきたことだ。
しかし、破壊や変化の時代では、このことを頭に入れて、もっと自身を追い込んで学ばなくては使いものにならない。

次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動 | deathhacks

今まで理解されていた「学習」のしくみは「教わる者が知識や情報、技術などをゲットして成長や利得を得る」というものだった。

しかし、実際は(実は古来からそうであることは変わっていないのだが)学んだ気になっている者は、何も学んでいないし成長していない。
極論としてはそういう認識をした方がいい。
出力して教えた者だけが、学び、成長していく。

例えばメンタルヘルスの学習やトレーニングで言えば、「うつっていうのは◯◯というように解釈して説明すると良いんだよ」とレクチャを受けるとする。
それ自体がいけないとか無駄というわけでは決してない。

しかし、そのあとのアクション、行動、思考が問題であり、成長するか否かの明暗を分ける。

「なるほどー。腑に落ちた! 今日はいいことを勉強して得したな。。」というように感動感激して終わり止まってしまったら、当人の満足感や充実感とはまったく違って「身に付いてはいない」。

どうすれば良いかと言えば、受けた内容や理論を足がかりにして、自分なりに咀嚼消化して、再構成し、「今議論していることは、つまり、、こういうことですかね?」「〇〇という表現もあると思うんですが、聞いてみてどうですか? かえってわかりにくいでしょうか?」と、投げ返して「うん。良いのじゃない」「なるほど。悪くない」というように他人の頭や感情に響かせるのだ。
これを質と量、両方膨大に積み上げていって、初めて「学ぶ」ことになる。

だから、過去に言われて、歴史が示しているように、教え、アウトプットしてきた者が一番理解し、成長し、得をしてきたのだ。
これが「勉強するのには他人に教えるのが一番良い手段」と言われてきた理由だ。
今の時代にはなおさらこれが当てはまる。

変化の時代には、皆不安が強くなるから、なおさら「教わって満足し、安心する人」と「チャレンジしてアウトプットして試行錯誤、失敗を積み上げる者」の差が生まれていく。

近年、勉強会やセミナーが盛んで、その動き自体はとても良いと思う。
しかし、その中での参加者や主催者の中でも、今回説明したような、教える側と教わる側の間の成長格差というものはドンドン進行していく。

私から言わせれば、勉強会などにお金を払って参加しているということは、無駄とまでは言わなくてもとても費用対効果が悪いトレーニングになりかねないという危険がある。
実は、勉強会やセミナーを主催し、チャレンジやアウトプットを1つでも多くしている者は、対価を得た上に成長までしてしまえる、好都合な位置取りなのだ。
しかも、まだまだ多くの人はそれに気づいていなかったり、その位置に向かって踏み込んでいけていない。

学習のしくみというものは、一見誰でも理解しているようでそうではない。
当たり前と思っている部分や細部から変化していかなくては自身は変わらないし、変わっていく世の中で生き残ってもいけない。

2012-05-24 09:00

(関連URL、追記2012-09-07)

払うべきか、稼ぐべきか – Chikirinの日記

感情のメモリー

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感情というものはやはり何か目的があって存在すると思っている。
目的、というとそこに何か「神の意思」のようなものがあるようなイメージだが、それとは少し違う。
感情があることによって、生き物もしくは種として有利になる点、つまり意義があるのではないかという仮説思考だ。

感情の目的の一つは「記憶するため」だろう。

人間は、それが「大事だ」と思うことによって覚えやすくなる。
逆に言えば、大事だと感じなくては忘れてしまう。
興味のないことの勉強などで、無意味に思えていることは頭に入らないし残らない。
好きなことや好きな人のことであれば、意識しなくても記憶に残る。

この性質は、不幸なことや失敗、惨事や悲しいことなどであってもはたらく。
今度は忘れようとしても、いくら本人が忘れたくても、わすれられないという現象が発生する。
これがいわゆるトラウマ(トラウマティックな出来事)だ。

人間は、何かの理由があって、どうしても覚えたいこと、忘れてはいけないことを記憶にとどめるように努力や工夫を重ねてきた。
繰り返しや反復で暗記しようとするのは旧くからあった知恵だ。
これはある意味人間の無意識を騙して、「何度も目の前に存在している事柄だから、これは大事なことだぞ」と錯覚を起こさせているのではないかと思う。

そう。結局いまのところ、記憶というものはまだまだ解明されていない部分が大きい。
記憶を自由に操作、コントロールすることを人類はできていない。

記憶に残るかどうかは、無意識が決めていて、わずかに手を出すことしかできていないのが現状だ。
しかし、この「記憶」というものを解明していき、コントロールすらできるようになるとしたならば、「感情」がその入口や切り口の一つになるはずだ。

2012-04-20 07:00

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