40歳になると直球が変化球になる

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40歳になると(私は実際にはまだ39歳だけど)、それまでと同じ言動をしていたとしても、あるいは自分自身を変革したパターンでも、周囲・社会の受け取り方は20歳代、30歳代のときのそれとは異なってくるのかもしれない。

かなり強引な一般論だが、40歳も過ぎれば、世の中や人生の様々なことを見聞きし、経験してきているだろうから、うまい具合にアクが抜けたり、適度に妥協することを憶えたり、今更自身や環境を変化させることを嫌うようになったりするような気がする。
私自身も漠然と、そういった中年以降の大人を見てきていたり、自分がそうなっていくこととを想像していた節がある。

しかし、自分がその地点に来てみると、そうした想定は一部は当てはまるが、結構な割合で外れていたり、まったく似ても似つかない方向性を持っていたりするような気がする。
そして、基本的にはそれが心地良い。
あるいは逆に、心地良くなろうとしていると、アクを出し、妥協せず、まだまだ変化していこうと思える。

そして、そうした性質が中年の自分にあると周りの少なくない人からは新鮮で異端で変わり者で掴みどころがない人間であるような評価を受ける。
まったく望むところでありがたいくらい。

プロ野球の投手が新人から20歳代のうちは速球派で鳴らしていても、30歳代も進むうちに技巧派・変化球投手にトランジションしていくケースはとても多いだろう。
それは悪いことでも奇異なことでもない。

しかし、そこで速球派のままにプレーを続けることができたならば、対する打者やチームは頭や目では理解していても「この年齢の投手がこんなにまっすぐ主体で投球を組み立ててくるはずがない」とか「勝負どころではやはり変化球で来るだろう」とかいう微妙な錯誤をする確率が高くなるのではないか。
20歳代の投手が時速140kmの球を投げ込んでもある意味、意外ではないが、それが40歳の投手であれば、魔球とまではいかなくても「逆に」変化球のような効果‐それはほとんど心理的なものであるわけだが‐をもたらすかもしれない。

ちょうど水島新司の「あぶさん」(違った?)に出てくる超ベテラン投手兼監督の岩田鉄五郎が、全力投球していて、打者としてはもうその疲労困憊の様子が高度な心理的駆け引きとしての演技なのか、本当にへばっているのがよくわからなくなって、結局打ち取られてしまうという場面が私には思い浮かぶ。

私自身の場合は、自己分析的にはさらにひねくれていて、20歳代のときにはさまざま人生や思考をこねくり回していて、言わば変化球を投げまくっていたような感じかもしれないと勝手に思っている。
そして、今ごろになって何を思ったのか、目一杯力んで速球をビュンビュンと投げたくなってしまっているようだ。
これが適切かどうか、体を壊さないか、続くのか、はたまた続けるのかはわからないが、当人としてはとにかくワクワクしているし続けたいという気持ちのようだ。

2013-03-22 08:00

あぶさん – Wikipedia

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