AD/HD(注意欠陥/多動性障害)や発達障害、学習障害や識字障害など、こうした状態が存在するということ自体があまり知られていなかったものが注目されている。
ただし、これらは従来のイメージの「病気」「疾患」とはまた違ったものだろう。
これらは個人の病気というよりは、社会に深く関係した現象であり、問題だと思うからだ。
こうした問題を抱えた本人が苦しいとか、困っているとか、「治る」か否かというのとは別に、その所属するコミュニティがどう考え判断し行動や方針を決めるかが一つの焦点になる。
「問題」を抱えた人らを社会やコミュニティがうまく受け入れ生活していくことができれば、実は問題の一部が解決してしまったり、問題としての次元がガラッと変わってしまう可能性がある。
文字がまだ存在していなかったり、発達も普及もしていない世界や時代であれば、現代の先進国ほどには識字や学習の問題は大きくなかったはずだ。
そもそもその問題に気付かれることなく、かつ特に不具合や悲劇、不幸な出来事も起こらなかったかもしれない。
世の中、社会として、足並みを揃える必要がある部分は確かにあるが、すべてを同じ基準で考え、そこに個人個人を当てはめるというのは民主的でないし不幸な社会だと思う。
科学はどこからどのようにつながっているか複雑なものだから軽々しくは言えないが、例えば、ガリレオ・ガリレイが天動説をとなえたときに、他の大多数人が理解できなかったり、受け入れられなかったりすることに罪はない。
極端に言えば、昔であっても現代であっても、別に太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽を回っているのだということを知らなくても生きていける。
「ガリレオ問題」は科学的にはある理論が検証・追試できなかった(されなかった)問題だが、社会的にはそれが迫害や名誉の毀損をもたらしたことがいけなかった点だ。
時計が発明されて初めて時刻や遅刻というものが生まれた。
測定の精度が上がったり、より厳密な物差し・尺度が作られれば、それに合わせて誤差が大きくなる(あるいは気付かれていなかったものに気づいてしまう)
物理法則や現象は不変であっても、社会や世の中、見る目や尺度が変化すれば、違うものが見えたり、同じ物事が違うものに見えてしまう。
観察者と対象、個人と社会の関係というものは常に相対的なものだ。
動物園のサル山を見物している時に、猿のほうが人間を興味深く観察して色々と考えているかもしれない。
2012-03-07 17:00
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