うつと惨事は切り離して考えられない

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うつと惨事に対する反応(いわゆるASD、PTSDなど)はどちらも心理臨床や精神科医療が扱うものだが、その相互関連はあまり認識されておらずまったく別のものととらえられている。
しかし私はうつと惨事というこの2つは結局は別々に理解したり、研究したりするのが不可能なくらい、密接に関係していて、まだらに混じり合っているものだと考えている。

例えば、知り合いの死や自殺、災害や事故などを体験した後には惨事に対する反応が現れる場合がある。
出来事が起きてから早い時期には、それら反応についての情報提供や回復の見通しを予測してあげたりストレスを緩めるためのツールを伝えたりすることが有効だ。
しかし、ショックを受けた人のうち、惨事の強度に応じた確率で反応が長引いたり、追加の出来事や環境の不具合などから、以前の状態への回復がうまくいかず、うつに移行したり被ってくるケースがある。
こうしたときには、元々の原因の大きな一つである惨事やその反応にあまりにずっと注目していてはケアや情報提供の焦点がずれることになる。

また、逆に疲労が蓄積するかたちでうつになっている人の理解やケアの一部にも、惨事やそれに対する反応を理解していていないと本質を見逃してしまう。
それはうつの人が一度悪循環が始まってしまうレベルまで疲労し落ち込んでしまうと、なぜなかなか回復のきっかけがなくなってしまうのかや、なぜ変化が感じられないほど少しずつしか調子が戻らないかの説明に関係するからだ。
これは「うつの人にとっては日常が惨事」になってしまう場合があるため、健康で元気な人の常識ではその怖さや自責といった気持ちがうまく分からないのだ。

さらには、いわゆる新型うつやディスチミア型、若者型といわれる種類のうつを説明するのにも惨事反応を組み合わせればしっくりくる。
なぜ自罰的でなく他罰的な言動が見られるかといえば、そこには惨事に対する反応である過覚醒が表れているからだ。
考えてみれば、うつの人でもイライラをつのらせて家庭や職場の人間関係でトラブルになることはよく聞く(その後に後悔や疲労につながり、より落ち込む要因になってしまうのだが)
自殺などは自分への攻撃の究極のものだが、一線を越えるには疲労や絶望といった感覚・感情だけではなく、同じように過覚醒や怒りのような高めの行動エネルギーが出るような状態が必要ではないか。

このように、うつと惨事は「両方を知っていたほうが良い」というレベルではなく、「両方を知らなくては良いケアやサポートはできない」というものであると考えられる。

2012-02-23 09:00

(関連エントリ)

うつの人の日常は惨事である | deathhacks

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