守ってもらえることが重要な時代になってきている

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人が無力感を感じるのは、自分に力がなくて弱かったり、自分をコントロールできないと思えてしまうときだ。
これらは環境と自分の状態との強弱や優劣によってシビアに決まってくる要素だ。
自分が強くなれば自信を持って生きていけるし、弱ければいくら言い張っても価値がないものとして考えるしかない。
過酷といえば過酷なのだが、公平な判定だと言うこともできる。

原始的な時代や社会であれば、強弱の判定をする評価の軸は単純で少なかっただろう。
肉体の強さや速さが絶対的な評価軸であったときから、知恵や工夫によって食料や資源を早く多く集められる者が一番になれた頃まで、内容は多少変わっているように見えるが要はデジタルな大小評価でしかない。

しかし現代の人間社会は全体が把握できないくらいに複雑になっている。
人間同士のつながりやネットワークが経済価値を決めている。
このような社会でもっとも人間が恐れることは「嫌われる」ことだ。
どんなに関係ない人からの評価で会ってても、本能的に気になるしできれば好かれたいと思ってしまう。
これは、今この瞬間にまったく利害関係がない相手であっても、一瞬で状況が変化して、その人に助けてもらったりお願いをしなくてはいけなくなるかもしれないことをどこかで意識しているからだ。

これは、「守ってもらえる」「味方になってくれる」という感覚が「自分は強い」という感覚に対して、相対的に重要になってきているということだ。
なんのかんの言っても、現代では一人で生きていくことはほぼ不可能だろう。
食料をすべて自給自炊することはなかなか大変だし、何か害や危険を被った時に警察や国家に守ってもらえないとしたらそのリスクに対応するための準備コストが膨大になる。
その分を他人や社会に任せてしまえる代わりに、それらの価値を認めなくてはいけないという仕組みになる。

この土台があるために、現代では時として「守ってもらえそう」という予測と現実のギャップが、旧来の時代よりも無力感を大きくする場合が生まれる。
普段守ってくれると思っていた仲間や警察、国家などから攻撃された時のショックは大きくなる。
無力感を感じて極度に疲労してしまうような精神的ショックやトラウマの背景にはそのような構造があると憶えておこう。

2011-10-14 10:00

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