天才は正しさを証明しなくても良い

SDIM0974

天才は常に正しい

世の中には「天才」がいる。
天才は、物事の本質を即座に見抜いてしまう。
天才には、出来事の結果が前もってわかる。
何をすれば問題解決になり、それをどう実行すればいいかが、天才には見えている。
逆に言えば、そういう人間が本当の「天才」なのだ。

だから、天才は考えたことや、言ったことが正しいかどうかを証明する必要がない。
もちろん、自分で実行して証明しても構わない。
ただ、結局は正しいことが証明「される」。
あるいは後から「わかる」

ガリレオが「太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ」と言っても一般凡人は理解や納得がすぐにはできなかった。
それが科学的に真実であったのに。
ガリレオは観測の結果と計算によって、事実を証明したのであって、真実を天才的に直感で見抜いたのとはちょっと違うけれども。

「正しい」カウンセリングは触れればわかる

カウンセリングにも似たような面がある。
確かに個々のクライアントやカウンセリングはあまりに個性的、個別的だから、一つの定型的なやり方を「正しい」ものとして決めたり、教えたりすることは難しい。
しかし、それは「正しい」やり方がまったくないということではないと思う。
そして、世の中には「間違った」カウンセリングが少なくない。

現在のカウンセリングは、一流の料理の賞味や美術品の目利きと同じで、良いものに接してみて初めて気づくものだ。
何が一流であるか、どんなカウンセリングが良いのかを簡単に口で説明できないのはプロフェッショナル側の力不足ではあるかもしれないが、食べ物と同じで「口にしてみれば違いは明らか」だ。
一目瞭然であって、「論より証拠」、「百聞は一見に如かず」なのだ。
しかし、良いカウンセリングに会ったことがなければ、知らなければ、「こういうものなのかなー」「こんなものなのだろう」としか思えない。
それは、知らないからとしか言いようがない。

証明を外注に出す

現代は、思いつきや「ヒラメキ」を気軽に広くアウトプットするチャンスや場やネットワークが低コストに存在している。
これにはどんなメリットがあるだろうか。
何事でも、とりあえず正しさや実現性、現実性などを度外視して世に出してしまい、有効性や不具合、論理の瑕疵などの証明や検証は他者や集合知に任せ委ねてしまってもいい時代になっているのではないか。
それこそ、どんな学問的あるいは工業的分野でも、とりあえず個人の頭から外に出して議論をしてみる、試作をしてみてから考えることの利点が知られるようになっている。

不確かなものや個人と組織の権利などに関するものを気軽に公開してもいいかという部分は並行して注意と議論は必要だ。
風評被害的なものや名誉の毀損につながるような可能性への安全性は別のシステムで確保するべきだろう。

2011-08-27 09:00

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

コメント

タイトルとURLをコピーしました