大惨事がトラウマティックストレスになるとは限らない

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災害やレイプなど、出来事や事件の衝撃が大きければ大きいほど、実際に怪我をしたり身の危険を感じたりすればするほど、それがいわゆる「トラウマ」となりやすいのは確かだ。
もちろん惨事の「強度」だけがトラウマが生じるか否かを決めるわけではない。

強度とは別に、受け手側の要素が関係する。
この受け手側の要素は3つあげられる。
1つめは受け手から見た惨事の大きさ、2つめは惨事になんらかの対処が取れるか、最後の3つめは惨事について他人から助けをもらえるかである。

1 受け手から見た惨事の大きさ

惨事の絶対的な強度が大きくても、受け手に十分な体力や余裕、エネルギーがあれば結果的に衝撃は小さくなる。
同じ災害に遭ったとしても、サバイバル能力が高ければより生き残りやすくなるし困らないというようなものだ。
いくら客観的には悲惨な事態や事件に見えたとしても、個人個人には得手不得手があるから、「必ず」トラウマを生じるという出来事はないとも言える。

2 惨事になんらかの対処が取れるか

しかし、人事や人知を超えたものだからこそ「惨事」なのだとも言える。
出来事に対してまったく何も対応できない、なすすべなく翻弄されるがまま、という体験や感覚はトラウマにつながりやすい。
ほんの少しでも何かしらリアクションが取れると、人間は完全に自信を失わずに済む可能性が高まる。
これは例えば「逃げる(ことができる)」でも良いし、出来事の後に「次に同じ事態に出合ったらこうする(ことができる)」でも良い。
ただし、「ああすれば良かったのに、、」「こうすれば失敗しなかったはず」という思考や感情は自責につながるという面がある。

3 惨事について他人から助けをもらえるか

出来事があまりに強大で、自分一人ではとてもとても対処や避けることができない、生命の危険すらあったり感じたりして、今の、そしてこれからの自信を根こそぎ奪ってしまうような場合。
そんな場合でもトラウマが生じない、あるいはトラウマ的になること(PTSDなど)を避ける方向はある。
それは、守ってもらえることだ。
集団生活、社会化を選んで発展・発達してきた人間は、普段は独立的な survive を望み、推奨しているとしても、もしものときには社会の関係性を利用することができる。
元々、社会的に弱いと見なされる種類の人間でも、楽しく有意義に生きることができるのは実際上当たり前のことだ。
他にも理由はあるとは言え、生まれたばかりの赤ん坊や弱り切った老年が必ず絶望しているはずもない。
また、この「守ってもらえる」という感覚は、単に辛さや苦しさを「他人が知っている」「し方がないことを認めてもらっている」ということだけでも十分なときは多い。

まとめ

惨事がトラウマティックストレスとなる要因は、その大きさや強度だけではない。
受け手側の要素・要因には3つあるが、これらは「無力感」、あるいは逆に見ると「自信」に関連している。

2011-06-11 07:00

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