話すこと、書くことによるストレス対処について考える

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悩んでいるときや惨事ストレスを受けているときに、クライアントに勧める対処として「話すこと」「書くこと」が挙げられる。

「書くこと」によってストレスなどが軽減する(可能性がある)理由について、「記録をしたから、そのことを忘れてもいいのだと認識するのだ」という説明をする人もいるが、ちょっと今一歩、論理性を感じられないので私個人の好みには合わない。
「話すこと」も、他人に自分や事象の情報を伝えたことによって、実質とは異なったとしても責任の分散が図れる、と言うかもしれないが同様に感じる。
違和感がある。

私としては「話すこと」「書くこと」による心理面への効果は「抽象化」による部分が大きいと思っている。
ある悩みやトラブル、惨事などを、生(なま)のままで心配したり、反芻して考え続けることは、時としてかなり苦しく、人間を疲労させる。
「抽象化」というのは、その事象から部分を抜き出して扱う手法である。
ダウンサイジングと言っても良い。
全体を(無謀に)扱うのではなく、まず手を出せそうな部分を抽出してみたり、過去の自他の経験などを利用してうまくマネジ manage する可能性を探していくことになる。

このとき、話したり、書いたりすることは「抽象化」そのもの、ということになる。
言語というものは正に抽象化のための道具だからだ。
抽象化は、ときに、全体から真に大事な部分を取り落としてしまうこともあり得るが、それは運用で補えばいいだろう。
(ゲシュタルト、とかそういう言葉も浮かぶがまだ個人的には不勉強)
一度、言語化・抽象化というフィルターを通すことによって、事象に対して客観的になれたり、単純に心理的な距離感をとることができるということが良い効果をもたらすのではないだろうか。

心理ケア・サポートの理論については絶対的な正義や科学性というものが確保しにくい。
もちろん、そのための努力は、特に現場が切迫していないのであれば惜しんではいけない。
科学的、論理的に正しいことが、少なくとも現時点では分かっていない部分については、複数の説明手法を使う使わないは別にして、平常から集めたり考えたりして準備しておくべきだろう。

2011-03-21 10:00

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