状況や人間関係の個別性が高いため。
倫理観も不変一定のものではないため。
いきなり倫理違反をを問うとか、違法として訴えるとかいうのは原理主義的。
ある時まで我慢にガマンを重ねて突然公然の場に出すというのは間違っている。
これは訴訟の自由とは別に、権利の濫用として制限・規制されるべきもののようにも思える。
セクシャルハラスメントは言葉としても概念としても、実際の運用としても近年一定の注目を浴び整備されてきた。
その効果・功績は高いが、今現在とこれから先、バランスが自然に取れるものかというとそうではない。
セクハラを認識したのならばまず「それは性的差別ですよ」と注意する、または「相手が嫌がっている(みたいだ)から謝った方が良い」とか、当事者または周囲の人間が働きかければ済むではないかという面がある。
状況などの個別性を考えると、比較としては「強く叱責したり、身体がぶつかって相手がよろめいたりしたら、それは傷害か?」というような、やはり権利の濫用的な話になる。
2010-12-10 07:00
(2010-12-11 08:00 追記)
侮辱されたり、なめられたりしたら、キチンと対応するということに尽きるのかもしれない。
自分の権利や人生は「まず」自分で守る。
自分が一番のステークホルダーだから、、
コストの受益者負担という考え方。
自分の権利に敏感になることは、他人の権利もキチンと配慮することにつながる。
自分を大事にしていない人は、他人を大事にできない。
自分のメンタルヘルスをコントロールできない人が、他人のメンタルヘルスに関わってはいけない。
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