他人を責める、説教する、クレームを付ける、文句を言う、などのときに「私はいいけど、○○さんに謝ってください!」とか「□□さんに心配をかけて申し訳ないと思わないの?」というのは論理は合っていますが、裏に潜む感情はまったく違います。
本当は自分が「そう思っている」のにそれを直接的に表現していないだけ。
多分、ほとんどの場合、○○さんや□□さんに気持ちや考えを確認はしていなくて。
代わりに伝えてくれるように頼まれてもいなくて。
おそらく、直接、発言の主体が自分自身になると、その言動への責任は非常に大きくなります。
反撃・反論を受ける対象としても誰か別の人に代わってもらうこともできなくなります。
言動を発したあなたが引き受けなくてはいけなくなるでしょう。
主体をぼかしたり、ずらすことによって、自分の安全を確保したり、逃げ道を残しておく手法がこの「私がそう思っているんじゃない」「私のことは気にしなくていいけど」話法です。
しかし、「仕事」であれば、このようなあいまいな議論は除かなくてはいけません。
少なくとも自分はそう思います。
付記
議論やクレームなどのコミュニケーションは状況によっていかようにも変化し得る生き物、生モノです。
1対1なのか、第3者がいるのか、グループの中での話し合いなのか、それらによっても大きく戦略は異なります。
グループであれば、グループ力動を期待してもいいでしょう。
1対1は段階によって有効に使えます。
私が言い過ぎても、それは周囲の取り繕い、反論フォローや保護を実は期待していることがあります。
逆に、その一瞬前には一緒になって対象を攻撃していたのに、手のひらを返して、その場を収束させる態度を取るかもしれません。
それはかけた梯子を外す言動のように思われるかもしれません。
しかし、それらも私なりに範囲やバランスを考えた言動であり、ダブルスタンダード、トリプルスタンダードです。
2010-11-20 08:00
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