ブログには教育分析の効果がある

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ブログを書くと自分に向き合わなくてはいけなくなります。
自分が何を考えていたかにあらためて気づくことがあります。
書こうとしたテーマについて、いかに無知であったかを知らされることがあります。
書く前には明らかに自分のなかにはなかったはずの、結論に到達することもあれば、新しい問題が生まれることもあります。

自分は経験していませんし、日本では主流に組み込まれたものではありませんが、欧米で心理学を学び、カウンセラーとして一人前と認められるために必ず受けなくてはいけないとされる訓練に「教育分析」というものがあります。
教育分析は、数ヶ月、あるいは1年以上もかけて師事する相手と対話を繰り返し、自分という人間の人生観や考え方のくせなどを客観的にとらえる過程になっています。それがプロとして一般のクライアントとカウンセリングをする者の通過儀礼、必修科目となっています。
教育分析を受けることで、自分には家族愛が満たされなかったコンプレックスがあるとか、権力に対して強い嫌悪感があるとか、食べることについて人より無とん着であるとかの性質を、可能な限りあらかじめ洗いざらい確認しておくのです。

これによって、カウンセリングの現場などで、それら自分の性質とぶつかるようなクライアントやテーマと対峙したときに、慌ててしまったり、プロとしての仕事の役割を見失ってしまったりする可能性を少しでも少なくしておくのです。

このように自分について、より深く広く認知するという、教育分析と同様の効果がブログを書くことによっても得られます。ブログではなくとも、日記などでも同じでしょう。
ただし、日常におけるまったくの行動記録や、日々食べたものの披露だけではそういった効果はちょっと望めないでしょう。

最近の私には、特に信頼しているメンタルヘルス業界のメンターや実践家と対話して、自分の内面をさらけ出したい、批判を受けたいという思いが強くあります。その思いと、ブログを毎日書くことを始めたことは、背景に共通するものがあるのかもしれません。

頼まれてもいないのにブログに自分の考えを書いて公表したり、学術的な契約関係があるわけでもないのに自分の感覚についての批評を受けたりすることは、他人からみれば迷惑な、過剰な自己開示=オーバー・ディスクロージャーではないかと少し悩ましくもあります。

ブログや対話には、他者からの認知や承認に対する欲求を満たそうとする行為という面がもちろんあります。
しかし、自分というものがまだまだよくわからないという不安、より深く自分を知りたいという欲求が、今の自分を動かすエネルギーになっています。

2010-05-02 8a.m.

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