法律も貨幣経済も人間が信じる気持ちを拠り所にしている点は宗教と一緒です。
物理現象や時間の運行は、もう既に存在するものを人間が理解・解釈するしかない面がほとんどですが、法律などは人間が一から概念として発明し発達させてきたものと言っていいでしょう。
物々交換以外の手段として、貨幣という、価値を表す代替品を使うことにより、「経済」という価値の流動性・流通性が生まれました。
貨幣と貴金属、希少品などを同等に扱うなどの時代を経て現在は、実際に存在する物質や事象だけでなく、未来の価値までも含めた数値やデータが取引されるようになっています。
法律は時に、絶対的な「正義」を具現化したもの、「正しさ」を保証してくれるものととらえられます。しかし実際にそうでしょうか。
人間は集団化して社会をつくることで今現在の(発展した?)状態を手に入れました。集まることで環境にはたらきかける力が増えましたし、知識も積み上げてきました。人間という種を増やしてきて、それは今も続いています。
そして、その社会の中に必然的に生じてきた個々人同士、組織同士の不同意やいさかいを解決する手段や指針の一つとして法律や宗教がつくられたのでしょう。
法律というある程度以上多数の合意が得られる基準や、それを執行したりコントロールする司法や行政という仕組みができたことにより、個人などが一々考えたり争ったりして時間や労力、生命や健康を失うリスクを減らすことができています。
ただしあくまで法が目指すところと限界は全体最適なので、少数の人間が犠牲になったり、意見が通らず損をしたりすることもあります。
細かな部分まで個人個人の「正義」が同じなはずはありません。多分にその「正義」には普遍性の乏しい「感情」というものが含まれるからです。
結局、法をつくり、守るという了解を社会や個人がしているという前提によって、我々は日常生活の上で、初対面の人がいきなり殴りかかってきたりしないとか、自分の持ち物を他人が奪っていったりしないということを、より安心して信じ、その心配しなくて良い分のエネルギーや時間を別の仕事に向けることができるのです。
宗教もルールを体系化した法律的なものとみることができます。その律を破ることに対する罰の表現や運用などが違うだけです。
そして逆に、法律も宗教と同じく多くの人間が信じることでその効果が期待できる仕組みだということが言えます。
こう考えてくると世界や社会が今の状態で動的に維持されていたり、変化していったりしていることを、奇跡ととらえて感動していいのか、偶然と思って怖がった方がいいのかわからなくなります。
2010-04-22 7a.m.
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