人はは多様性と同一性のどちらをどれだけ好むのか

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人には、他人と同じであることに安心する性質がある。
同じ物を所有したくなる。
同じような人生を歩みたくなる。人付き合い、友達関係、結婚、休暇、仕事、エトセトラ。
なるべく大きなグループに所属したくなる。

一方で、他人と違うことを目指す性質も強い。
他人と違う音楽を聞く。
一人を好む。
既存の概念を打ち破るような発明や、芸術や、起業をすることがこの上ない喜びになる。

やはりどちらが正しいというものでもないが、そのときの時流や、個ごとの相性というもの、個別テーマによる選択などによって、生き方・行動が決まる。

これらのうち、時流というものは大小の波をもって変化する。

次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動 | deathhacks

多様性が盛んに好まれる、時、人、グループ、テーマについては画一的な分析やサービスの当てはめは難しい。

2013-10-12 08:00

健康で良い人生をおくるためのスポーツ(1)

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健康であればより良い人生となる可能性が広がる。

30歳台くらいまでは過去の運動の蓄積や貯金、若さでなんとかなるし、不健康な習慣や心身への負担をごまかすことはできる。
しかし、そこからさらに40年間以上の時間を、楽しく、快適に生きるためには、努力や工夫が必要だ。
その手段の一つにスポーツがあげられる。
スポーツはそれ自体が楽しみや趣味にもなる。

これまでスポーツに興味が持てずインドア派を貫いてきたという人でも人生の中盤に差し掛かったところで新たな試みを加えてみるのはどうだろうか。
運動やスポーツに苦手意識があったり、ネガティブなイメージしかないという人も多い。
だが、子どものときに外部から半強制的に押し付けられたり、選択の幅が少ない中から自分に合った活動にたまたま巡り合わなかったりということがその原因だということはないか。

大人になって、自分の意思で運動をするというのは、学生が部活動をなんとなく始めてしまうこととはまた違うことだ。
大人はいつ始めてもいいし、いつ止めてもいい。
すべて自由だ。
ただし、始めにも書いたように始めるにしても止めるにしてもその結果や責任は確実に自分に返ってくる。

私自身も38歳になってから、スポーツジムに通ってみて、中学生の時以来だろうか、自分の意思でプールで不格好にのんびり泳いでいる。
水泳なんてまったく不得意で嫌なものだったのに。
そんな自分の気持ちを不思議に感じていること自体が面白い。

運動が習慣にまでなることがベストだ。
死ぬまで続けられることが理想だろう。

しかし、スポーツについては続けることを目標にしない方がいい。
それよりはまずとにかく始めてみることが唯一のコツだ。
一度、一人でも、仲間とでも、アクティビティをしてみることだ。
通勤や必要なお出かけとはまったく別ものとして散歩するところからでもいい。

とにかく始めるところのハードルを限りなく下げるのが良い。
自分を甘やかす。
形にはこだわらず運動すれば目標達成だ。

それが続くのかどうかは今の自分にはわからないし関係ない。
明日の自分に聞いてみるしかないし任せてしまおう。

2013-10-03 08:00

なぐりたかったらなぐるべき

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なぐりたかったらなぐる、のが良い。
なぐられたらなぐりかえす、のが当然だと思う。
現実的な認知と思考がある人は、実際にはしないだろうけど。
それにきっと手が痛いし、なぐりかえされる。

「なぐる」「なぐられる」というのは何も拳で本当に相手に暴力を加えるということに限らない。
あくまで例えではある。

それでも世の中で、なぐられるということは実は結構多くあると思う。
そして、なぐられて気付かない人、我慢するだけの人、自分で自分をさらになぐる人、色々いっぱいいる。

なぐられたら(理不尽なストレスを加えられたら)なぐり返す、というのは普段から意識していなければ、シミュレートしていなくてはできないことだ。
だからこそ思考実験を欠かしてはいけない。
なぐりたくなったら、それくらいに自分の中に攻撃性が増幅したことに気づいたのなら、何かをなぐるべきだ。
少なくともなぐりたい気持ちを表出するべきだ。

なぐられっぱなしの人がたくさんいて泣いていたり、なぐっていることに気づいていない人がいることに過剰に反応して悲しくなったり怒りが湧いてきたりしてしまう。

2013-10-02 17:00

精神分析に近づくことで自分に起きた2つの変化

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精神分析に近づいた、と言っても精神分析家を目指すことを決めたというのでもないけど。

精神分析「的な」考え方を少し学んだせいで、日常や自分の思考の中に変化があったように思う。

1つめは、人間が恐ろしくなったことだ。

元々、自分が信用できないのと同じく他人を信用したり信頼したりはできないものだよなーという最近数年で自分の中に育まれた価値観がある。
それだけでなく、精神分析やケースを通して、普段街なかを歩いていても、行き交う人の顔や言動を見ると、何か恐ろしいことを考えている人が少数ながらある割合で生活しているということを意識してしまう。
できることは、自分がそれに巻き込まれることが一生のうちでも確率的にだいぶ少ないだろうとなんとか安心するようにするだけだ。
逆に、これまで不可解だった他人の言動にある種の説明をつけることができるようになって安心できることもあるので相殺されるのだけど。

2つめは、自分の直感やフィーリングを信じるようになったことだ。

とは言っても、ここ数年、自由にしているので、すでに実践していたとも考えられる。
ただ、その行動や選択、決心に至るまでの迷いや自信に与えられた変化は少なくない。
要は、感じたことを言うことに迷いが減り、フィーリングに従って割りとすぐに実行でき、後悔が少なくなった、ということだ。

失敗が大好きになった。

2013-10-01 17:00