互いの違いを前提とするか否か

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欧米の考え方の背景には「お互いが違うのは当たり前」「説明しなくては理解できないし理解されない」というものがある。
日本的な「和を乱すものは悪」「村八分による規律維持」「横並び礼賛・意識」「出る杭は打つ」などの風習とは起点が異なる。

かといって、今存在している社会基盤がまったく違うというわけではない。
近代化、グローバル化の中で、見かけ上は同じテーブル上で話しをし交流をしている。
到達している場所はほとんど同じようにみえるが来た場所と向いている方向だけが違う。
これがかえって混乱の元だ。

差別意識というものも、別に差別をする側だけの問題にはならない。
障害を持っていたり、弱者であっても、親切にされたり、保護されたり、サポートを受けることを嫌う人が日本には多い。
これは、保護を受けることが、集団の中での仲間であることから外れてしまうのではないかという意識や集団に対する自責の念から生じている。

こうした状況で、社会が制度や法などで、半強制的に保護・サポートをするようになると、表面上はとても道徳的によろしい言動であっても、当事者に受け入れられなかったり、逆に傷つけてしまったりもする。
親切が仇になる、というやつだ。

このとき日本で、サポートを提供する側は、元々皆違うものなのだし、「弱い」ということだって当事者自身に責任はなく範囲だって限定的なものだということを頭ではわかっていても肌では理解していないから、しくみがうまく回らない時にその原因が見いだせないことがよくある。

そうしたときには、サービス提供側の工夫も必要だが、当事者側の「自分カミングアウト」のような変化が必要だろう。

2012-10-11 08:00

(関連エントリ)

うつの「自分カミングアウト」は難しい | deathhacks

自分カミングアウト、あるいは病識を育てるという考え方 | deathhacks

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