事故や災害によるストレスや記憶を処理する自由と多様性

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大きな事故や災害が起こったとして。
受けた惨事ストレスの処理し方、「平常」への戻り方やかかる時間は人それぞれ違います。

その人なりに整理をつけて、日常では忘れていたいという人もいます。
その出来事を「絶対に忘れない」「社会としても忘れるべきではない」「風化させてはいけない」と考える人もいるでしょう。

2001年のアメリカ同時多発テロ事件で倒壊したワールドトレードセンター地区をグラウンドゼロなどと称してモニュメント化することに意義や救いを感じる人もいれば、その場所に近づきたくない、ニュースでも耳にしたくない、「いっそのこと、無かった事にして忘れたい」という人もいるのが現実です。

本来、宗教や思想の自由と同じく「悲しみ」方の自由や「記憶の処理」し方の自由は最大限確保されるべきものです。
しかし、2つの要因から現代社会ではその自由が知らず知らずのうちに許されない状況になることが増えています。
一つは人口の密集、もう一つは情報網の発達です。

人口の密集や、都市の近代化により、過去の歴史と同じような事故や災害であっても、一度に被害を受ける人数規模などは増えました。
分母が増えれば、被害の絶対数も増えることは必然ですが、それを必要悪であると簡単に納得はできないことも事実でしょう。
飛行機や列車などの事故、あるいはテロなどによって数百人から数千人の単位で同時に人が亡くなるという事象は、ごく最近まで人類には降りかかりませんでした。

また、情報網の発達によって、惨事に出会った人は、その思い出から意図的に離れたり、忘れたり、自分のペースで記憶を処理する自由を奪われています。
惨事から年月が経って、当事者や関係者たちが、その時の思い出や教訓、悲しみを再認識することは昔からありましたが、それを現在のメディアは報道の名のもとに半強制的に津々浦々まで時間の区別なく伝えます。
記録媒体などの進歩によって映像や資料、人々の記憶までもが鮮明に残されることによって、ある意味とても大事な人間の機能である「忘れること」が難しくなったり、それぞれの人が意識的にコントロールすることができなくなったりしています。

本来多様であるストレスや惨事に対する人それぞれの反応や、その処理のペースなどの自由を知り、社会としても個人としてもバランスが取れるような考察と活動をしていくことが、メンタルヘルスには必要です。

2011-02-17 07:00

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