学問の役目はセンスを定義すること
「センスがない」
正確には「どうもあの人達にはセンスがないんだよねー」だったか「なんでおんなじことを勉強したはずなのに同じようにできないんだろう」だったかは忘れた。
カウンセリングの現場でのチーム同僚についての話。
「センスがない」という表現。
現実に起こったことや、細かいやり取り、会話、状況などは私には分からない。
同僚に対する正直素直なな感想なのだろう。
しかし、その人自身は「(自分の)評価が厳しすぎるのだろうか」とも言っていた。
センスとは何か
臨床の場で「お前はセンスがない」「言われなくても分かるだろう」というような表現をされた経験はある。
さてセンスとは何か。
医療にしろカウンセリングにしろ、その技術の中で「センス」と表現されるものは一体何だろうか。
それは「説明できない何か」なのだろう。
センスとは何かを定義しなくてはならない、センスとは定義できてないから仕方なく使う表現である、センスという抽象化されていない表現を使ってはいけない、と言うつもりはない。
現場では、「見て覚えろ」「盗め」「できないのは本人の努力が足りないから」になりがちである。
それらすべてを否定する気はない。
ある人はカウンセリングを他人に教えるときに一番重要なことは、「リズム」と表現した
あるカウンセラーに「あなたがカウンセリングの教育をするとき、何が一番大事だと教えますか」と質問した。
「それはね、リズムだ、と私は教えている」とのことでした。
それが正しいのかどうかは今の私には分からないが「センス」という抽象度のより高そうな表現ようりは実感できる答えではないか。
ただしもちろん完全な答えではないと思う。
教育、教育者としては定義できないこと、センスとしか表現できないことに対しても責任を取らなくてはならない。
指揮官や管理者としてのみの立場で責任を果たすことを至上と考えたならば、自分の部下やチームの面子に対して「あんたは能力が低い」「君は交代だ」として任務を果たそうとするのは、正しいと考えられる。
2010-12-28 06:00
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