人間は自由 聞き方も自由

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最近は講演や講義を聞いていてもiPhoneやケータイをいじりたくなります。
必要なら紙やポストイット、ノートなどにメモを取ることもしますが、聞きながら思い浮かんだことをすぐにTwitterなどに発信したり、Webを使って裏取りをしたくなったり、関連項目を調べたりしたくなることが増えました。

しかし演者や教える人によっては違和感を感じたり、嫌がったりすることも多いかもしれません。
「ちゃんと集中して聞いてください」
そういった行動や態度を「失礼だ」と言う人がいることはなんとなくわかります。
私も教える側に立った経験や立つことがありますので、その感じ方や気持ちがまったくわからないということはありません。

教育や講演、プレゼンのときにもコミュニケーションをキチンと取ろうよ、あるいは取りたい!という主張はわかるのです。

しかし、一対多の状況であればすでに相互に均質な(平等、公平とは少し違うかもしれませんが)コミュニケーションではありません。
それはその場の状況や、教える側と教わる側というような、内容の上下関係や価値の供給とは無関係に不均質なものです。
「一方通行性」とでも言えばいいでしょうか。

様々な思考や想起が生まれる状況で、聞く側だって何かしゃべりたくなる、表現したくなります。
聞く側が表現の自由に(暗黙の了解として)制約を受けるのですから、その分、別の自由を享受しても良いではないかというのが私の考えです。

それが今までは、自分のノートに書くとか、質問をするという方法しか通常は許されなかったというだけだと思います。
もちろん必要に応じた制約はされますが、いわゆる講演や講義などはもっと聞く側、主たる受益者に自由を与えても良いと感じます。
聞いている人が、Twitterやケータイメールをする、PCやiPhone、Wikipediaで調べものをするというのは大ざっぱに考えて話す側や一緒に聞いている人を邪魔してはいないのではないでしょうか。
であれば、それらを許してもいいと思います。おそらくそれを許さないのは過去の常識や価値観なのでしょう。

聞く側には「聞かない」権利もあります。100%完全に話を聞いて憶えたり、記録したり、自分の仕事や人生に取り入れる義務はありません。
逆に考えてみて、1〜2時間の講演などで(学生ならば一日に数時間になります)一字一句をもらさず聞いてモノにしている人がいたら(いても別に良いしそれはすばらしいことなのでしょうが)それは少し「おかしい」のではないでしょうか。
一対一で好きな人と集中して会話をしていたってかなりの部分を聞き落としたりするでしょう。

結局、時代やテクノロジー、コミュニケーションは大きく変化してきて、さらに変化を続けていくのです。
講演や授業という形態のコミュニケーションにおいて、演者(話す側)も聴衆(聞く側)も意識や認識を変える必要があります。

とはいってもそんなに特別なこと、無茶な主張をしているのではないかもしれません。
今までであっても、一対一の会話やインタビューなどの場であれば、相手の許しを(明示的あるいは非明示的に)もらって、メモをしたり、PCに入力したり、写真を撮ったり、調べたりすることはあり得たでしょう。
結局そういった臨機応変な行動や心理までも含んだものが「コミュニケーション」だと思います。
そこに「ルール」はなく、互いやその場にいる人の間に「了解」があるだけです。

たとえば、「話を聞く」ことの目的は何でしょう。
聞く側が話をする人の内容をありがたがってへりくだって授かるという程の情報や地位、身分などの格差はどんどん少なくなっています。
話を聞いた人が、話を全部暗記して記憶や情報を持った人間のコピーをつくるのが目的、ゴールなのでしょうか。そうではないでしょう。
もちろん、あえてコミュニケーションや印象を悪くして嫌われるつもりや必要はありませんが、それ以外に制約やルールはないのです。

人間は自由。聞き方も自由です。

2010-06-05 9a.m.

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